「竹谷先輩が、コーヒーを飲むなんて、思いもしませんでした」

視線を伏せたまま、コーヒー豆の香ばしい香りに包まれた店内でそう呟く。言われた本人は困ったように顔をゆがめ、視線を彷徨わせた。

「…そおか?」

困ったように笑う竹谷は、二歳も年上とは思えないほど可愛いかった。別に、女の子のように、という意味ではない。普段のスパッとした男らしさから一変して、年下みたいに幼く笑うのだ。それが可愛いと思う。同時に、孫兵だけが知っている竹谷の顔だと思うと、嬉しくて堪らなかった。

先輩、気づいてましたか?







孫兵と竹谷が初めて会ったのは、三年前のことだった。
小学校から、こと生き物に関する興味が強かった孫兵は、生物係、飼育委員と生き物に関わることは何でも率先してやってきた。中学には生物部がなかったけれど、高校にはあるんだとオリエンテーリングで知った時は、叫びだしたいくらいの高揚感に襲われた。クラスメイトが部活動見学に励む中、孫兵は迷うことなく入部届けに「生物部」と書きこむくらいに舞い上がっていた。

「まごへー、仮入部する?」

そんな風に聞いてきたのは、幼馴染で腐れ縁、そして同じく腐れ縁で方向音痴二人組の保護者でもある作兵衛だった。「運動部、いやでも軽音部もおもしろそう…。どうすっかなぁ」とひたすらグルグルしている作兵衛に、「僕は生物部に入るよ」と笑った。決定事項のような言い回しに、作兵衛が距離を詰めてくる。これにはさすがの孫兵も驚いた。

「え、弓道、やんねぇの?」
「うん。生物部があるから、そっち優先」
「強かったのに。もったいねぇ」

中学では、部活は強制参加だった。全員がどこかしらに所属しなければいけない。
生物部という選択が出来ず、かといって流行のスポーツにのめりこむような熱い性格ではない孫兵が苦渋の選択で選んだのが、幼いころ祖父に仕込まれた弓道だった。静かな世界で的だけに向かうあの競技もそこそこ楽しかったし、それなりの成績も残した。この高校にも弓道部があったし、中学時代の先輩もいたから「入れよ!」なんて誘われた。ありがたいことだと思う。けれど、心はもう決まっていた。

「生物部に入りたいんだ」

生き物に囲まれた生活をしたい。
それが、孫兵の望みだった。




放課後、孫兵が向かった先は、生物室だった。その手には、入部届けも握られている。
先生の話では、生物部は部長と幽霊部員が数名いるだけらしい。部活動は名ばかりで、活動内容は同好会に近いもの。いまは部長が生き物の世話をしてるだけなんだと話してくれた。
つまり、実質部員は自分と部長だけ、という事だ。

正直、他人とのコミュニケーションは得意ではない。どちらかといえば不得手で、気持ちを推し量るのもへたくそだった。友達だって、古くから付き合いのある三人と、その友達の二人、合わせても両手で足りるくらいしかいない。そう考えれば、弓道というスポーツは孤独な一人の競技だったけれど、だからこそ続けられたんだと今更のように理解した。

いっそ、部長も幽霊部員だったらどれだけ楽だろう。
重い気持ちをかかえて、手にかけた生物室の扉。その先にいたのは。








「孫兵が、うちの大学くるとは、思わなかった」

でしょうね。
心底驚いている竹谷の言葉に、そっと顔を伏せて、孫兵は小さく笑った。

三年前、初めて生物室の扉を開いたあの日と同じように、今日はサークルの戸を叩いた。生物研究会、と書かれた扉の先にいたのは、あの日と同じ真夏の太陽のような笑顔の竹谷だった。

孫兵が偏差値が高いと思えないこの大学を選んだときの周りの反応も、竹谷のそれと全く同じだった。
高校三年間、学年順位は常に十番以内だった。知識を頭にいれるのは好きだったし、家での勉強もさして苦ではなかった。はっきりいってしまえば、馬鹿ではない。どちらかといえば、「勉強教えてくれ!」と、泣きつかれるほうだった。高校三年の模試では、難しいとされる大学もA判定を貰ったくらいで、周りは当然そこに進むと思っていた。けれど、孫兵が選んだのはお世辞にもすごいとは言えないごくごく普通の私立大学だった。選んだ理由は単純明快で、そこに竹谷がいたからだ。

(今度は二年、一緒にいれるんです)

ばかだと思われても、無駄な事だと笑われても良かった。

(竹谷先輩と、いたかったんです)






生物部部長だった竹谷と過ごしたのは、たった一年だった。それでも今まで生きてきた中で、一番中身の濃い一年だったと孫兵は思う。

「爬虫類が好きなんです」と、初めて会ったその日に宣言した。
気持ち悪いでしょう?だから僕にはかまわないでください。そんな意味を込めて伝えたそれに竹谷は、「おう、蛇も可愛いよな。俺は、生き物なら何でも好きだ」と、笑って返した。まるで犬かなにかを相手にしてるかのように、髪の毛がぐしゃぐしゃになるくらい頭を撫でられたあの日の事を、孫兵は今でも忘れられない。
あんな人は初めてだった。
常に他人と距離を取り、壁を作る孫兵とは違う。孫兵の作った壁なんていとも簡単に乗り越えて、心の中に入りこんでくる竹谷に惹かれるのに、そう時間はかからなかった。

夏休み、二人きりで取り組んだ研究は、予想外に楽しかった。ほぼ毎日、学校へと通い、カエルと睨めっこする日々に、「受験はいいんですか?」ときけば、「三年間で初めて部活っぽい事してるから、嬉しいんだ」と、竹谷は笑った。答えになってないと思ったけれど、たまに廊下ですれ違う竹谷と違う、泥まみれで遊ぶ子供のような幼い無邪気な笑顔に、何もいえなくなってしまった。心の奥に燈りはじめた灯はちょっとづつ、だけど確実に大きくなっていった。


竹谷が卒業したあの日、「ありがとう」と、初めて会った日と同じように頭を撫でられ、急激に切なくなった。鷲掴まれたように心臓の奥が痛くなって、泣きそうになった。「ちゃんとやれよ、部長」と最後に頬を引っ張られ、ああ、明日から先輩はいないんだ。と、冷えた頭で思えば、自然と涙が溢れていた。

「お前が泣くなよ」

そう言って笑った竹谷の顔は、生物室で見た幼い笑顔ではなく、ずいぶんと大人びたもので、余計に涙が止まらなくなった。
いなくなって初めてわかった事がある。それは、どうしようもないくらい、心のなか全部が竹谷で埋め尽くされていたことだった。




(…先輩。僕は、先輩の事が)





安物のカップに注がれたエスプレッソを、胃に流し込む。無駄なものが一切はいっていない苦味は、孫兵が好んで飲むものだった。それは三年前から変わっていない。竹谷の手にあるカップの中身も同じエスプレッソだった。

高校時代、竹谷の前でブラックの缶コーヒーを飲んだとき、「よく飲めるなぁ」と苦笑した彼を思い出す。あの時、竹谷が飲んでいたのは、甘ったるいココアだった。

(二年もたてば、味覚も変わるのかな…)

空白の二年間。竹谷と孫兵は連絡を取っていなかった。二年もあれば、色々変わるんだろうか。そこまで考えて、そもそも竹谷の私生活なんて、何ひとつ知らないことに気がついた。
途端に襲われた寂しい気持ちに、泣きたくなる。それを隠そうと、苦味の濃いカップに再び口をつけた。

「……先輩は、飲まないんですか?」

先程から飲んだ形跡のないカップを指差して孫兵が問えば、「熱いから」と竹谷にしては歯切れの悪い返事が返ってくる。「そうですか、」と可愛げのない一言で返し、目を伏せると、視界の端で竹谷が動いたのがわかった。ちらりと目線をあげれば、ちょうど飲むところだった。
カップに口をつけた瞬間、竹谷の眉間に皺が刻まれた。

(…知ってますよ、先輩)

ファーストフードが好きで、ポテチはカルビー派。味はうす塩が好きで、夏はコーラ、冬はココアが好き。コーヒーは、実は苦手。

僅かによった眉間の皺に孫兵は、ああ、やっぱり変わっていない、と一人ほくそえんだ。







エスプレッソとココア








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2010/11/5






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