HR終了の鐘が鳴り、担任が教室を出ていく。帰る者、部活に行くもの、遊びに行こうと誘う声。
拘束時間から解放され、皆それぞれに喋っている賑やかな教室の中で、長次は小平太を呼び止めた。

「小平太」
「なんだ?」
「今日は、図書委員会の会議があるから、一緒に帰れない」
「そっか。じゃあ、長次が行くまで、私も時間つぶして帰ろうかな」

別に付き合わなくてもいいのに、と思う反面、少しでも彼女と長く一緒に居たいという欲の方が勝ってしまう。
窓際の席で、頼まれた資料の整理をする長次の向かいに、小平太も腰を落ち着けた。何が面白いのやら、笑みを浮かべて頬杖をつき、じっとこちらのすることを観察している。
放課後の教室からは、一人、また一人と人影が減っていき、気付けば小平太と二人きりだ。
教室がオレンジ色に染まっていく。
グラウンドから聞こえてくるのは運動部のかけ声。校舎からは吹奏楽部の管楽器の音が響く。
資料であるアンケートをチェックしていれば、小平太が身を乗り出して覗き込んできた。
一つしか挟んでいない机の上、彼女との距離は、顔を動かせば触れてしまうほどしかない。
このまま少しだけ顔を寄せれば、彼女の唇に触れてしまいそうな距離だ。

「あ、これ前にやったアンケートか。全部長次が集計すんの?」
「いや、私は学年分だけ…」
「手伝おうか」
「もう、終わりだから、大丈夫だ」

近い
近い近い

鼓動の音が、耳の中にけたたましく反響する。
柔らかそうな頬。
桃色の唇。
そしていつも自分を翻弄してやまない、大きな瞳。
話をしながら、ほんの数センチの近さで、目と目が合う。
心臓が飛び跳ねて、長次は思わず固まった。
これは、もしや、千載一遇のチャンスではないか。
いや、でも。
心密かに葛藤していれば、不意に小平太が力強く目を瞑り、大きな瞳が瞼で閉ざされた。顔の中央にギュッと皺が寄るほどの表情のおかげで、長次は邪まな考えから戻ってくることができた。

「小平太、どうした?目にゴミでも入ったのか?」

心配して声をかけると、小平太はぱちんと目を開けた。凄い勢いで立ち上がり、椅子がガタンと音を立てる。
制服の襟首に、長次より一回り小さい、彼女の両手がかかった。
わけがわからない行動に反応するよりも早く、ぐいと襟首を持ち上げられたと思うと、唐突に顔をぶつけられる。
正確には、顔というより、唇を。

「!?」

ごつっ、と音までした。
唇に歯だか顎だかがあたって、痛い。
痛いが、しかし、一体全体、いま自分の身に何が起きたのか?
口をおさえつつ、目を白黒させて小平太を見上げれば、眉を寄せたその表情は何故か険しく、瞳には怒りの炎が浮かんでいる。
わしゃわしゃと彼女の気性と同じ自由奔放な髪を乱して、小平太は声を荒げた。

「あああもおお!告白も私からだったのに!チューくらい、長次からしてくれたっていいだろう!」
「チュー、…?」
「私ずっとしたいのに!長次は私としたくないのか!?」

キスというより、顔がぶつかっただけのようなそれ。
雰囲気も何もあったものではない。はっきり言って、頭突きされたのかと思ったくらいだ。
しかし、今、問題にすべきはそこではない。

「何を、そんなに、怒って…」
「だって長次、一度も私に好きって言ったことないだろう!私がうるさく付きまとうから、同情でつきあってくれてるのかと思うだろう!」

頬を赤く染めながら、小平太が叫ぶ。

「私はもう、ずっと前から長次が好きなのに!」

ばん!
机に怒りの猛りをぶつける音。
長次は茫然と目の前の想い人を眺めた。
うそだ。
冗談のような告白から始まって、これまでの何もかも、今のキスさえも、全てが冗談にしか思えなかった。
しかし目の前に、キスまがいの事をして、好きだと叫んで、ふつふつと怒る彼女が居る。
もしかして、もしかすると、全部、自分の勘違いだったのかもしれない。
彼女は最初から本気で、真剣だったのかもしれない。それを、自分が全く理解していなかったという事か。
怒りを見せる彼女を前にしながら、ようやくそう思えた。
頬を膨らませて怒る小平太は、小動物のごとく愛くるしかった。彼女が何をやってもかわいいとしか思えない自分も、相当重症だ。
長次はゆっくりと立ち上がった。床と椅子の脚がすれる音が、二人きりの教室にやけに大きく響く。
そっと彼女に近づいて距離を無くせば、小平太が顔を上げた。

「もう少し…」
「もすこし、なんだ?」
「雰囲気とか…」
「ふんいき?」
「たとえば」

長次はおそるおそる、小平太の頬に手を触れた。
小平太は視線をそらさず、まっすぐにこちらを見返す。どころか、長次が添えた手のひらにすり、と柔らかな頬を擦り付けた。
ほとんど無意識にそんな仕草をする彼女に、胸が、きゅうと締めつけられるような甘い痛みを訴える。
しかし小平太は、長次が顔を近づけてもじっとこちらを見つめているのみだ。
キスをしたいと怒鳴っておきながら、ここに及んでも空気を読んでくれない彼女に、長次は勇気を振り絞って頼んだ。

「小平太、目を、とじてくれ」
「わかった!」

はきはきと返事をしたあと、またもや顔の中心に皺がよる程、かたく閉じられる彼女の瞳。
ああ、冗談でもなんでもなかった。顔が近づいた時に彼女が目を瞑ったのは、キスを待っていたのだ。
しかし、こんなに力強く瞑られては、ゴミでも入ったかと勘違いするのはしょうがないだろう、と思う。

「いや、普通に…」
「普通につむってるぞ!」
「力を、こめずに。眠る時みたいに」
「え?あ。こうか?」

力が抜けて、小平太の表情が穏やかなものになった。
大きな瞳が瞼で閉ざされると、どこか大人びて見える。
長い睫。
赤みのさした、白桃のような頬。
つやつやとした、その唇。
再び胸がばくばくと音を立て始める。頭に血が昇って、呼吸が苦しい。
自分から強請っておきながら、いざ目の前にすると、ごちそうを食べてしまうのが勿体無い子どものごとく、中々触れることが出来ない。
本当に、いいのだろうか。
自分は夢を見ているのではないか。
彼女に触れた途端、自室のベッドの上で目が覚めたりしないだろうか。
長次はしばし呆然と小平太に見惚れた。
手を触れたままそれ以上進むことができず、自分を待つ小平太をただ眺めていれば、しびれを切らしたのか彼女の瞳が開いた。
続いてぽかんと唇が開く。
柔らかそうな唇の隙間から、途方に暮れたような呟きが漏れ出た。

「長次、なに、その顔…」

小平太の顔が、驚きに見開かれた後、みるみるうちに紅く染まっていく。
自分は一体、いま、どんな顔をしているのだろう。
だが。
恥ずかしそうに頬をあからめて、視線を泳がせる彼女に、我慢が限界を超えた。
長次はようやく顔を近づけた。耐えきれないとでも言わんばかりに、小平太が再び瞼を閉じる。
磁石が引き合うように、唇が、重なった。
柔らかい、暖かい、ふにゃんとした感触。
それは時間にしてほんの数秒。
しかし、音が、時間が、世界が、止まった。
差し込む夕陽の光だけが、眩しいほどに網膜の裏で燃えている。
ただ触れるだけのキスをして、名残惜しく小平太から離れれば、追いかけるように彼女が胸に飛び込んできた。
がばっと抱きついてきて、うー、と唸っている。

「どうした?」
「胸が痛い、破れそう!どうしよう、私病気かも」

小平太に言われて、思い出したように耳奥で響きだす心臓の音。
うるさいまでに激しくリズムを刻む動悸に、知らずに浅くなっていた呼吸に、長次は思わず口を開けて息を吸い込む。
それはこちらの台詞だ。
嘘みたいで、夢のようで、幸せすぎて、胸が痛い。
同じように心臓が破裂しそうだと思いながら、顔を埋める彼女に手を伸ばす




もうずっと、恋をしている。
遥か昔から、彼女だけ。
それを伝えるため、長次はそっと小平太を抱きしめた。






2013/6/16