ついてないの一言に尽きると小平太は思った。

体育館の重い扉の外を見れば、異常気象だと思うほどの雨粒が校舎や地面を叩きつけていて、小平太の気分を酷く落ち込ませていた。
朝はあんなに晴れていたのに。
授業が終わったばかり、部活が始まる前までは確かに雨なんて降っていなかったのに、体育館を出ると轟音を響かせているのだからそれはそれは驚いた。
季節外れの豪雨。
多少の雨なら濡れたって構わないけれど、今日のこれは程度が違う。屋根から出たら最後、それこそちょっとでは済まされないだろう。しかも季節は冬だ。凍てつく寒さの中、濡れ鼠になるのはさすがに避けたい。

「…まだいるかな」

鞄から携帯を取り出して慣れた手つきで番号を押す。
救急セットを持ち歩いている親友はきっと置き傘の一本や二本しているだろう。
期待を込めて発信ボタンを押した先の伊作は既に自宅で。

『ごめん、置き傘使っちゃった』

終わった。

しきりに謝る伊作に「悪いのは私だから」となるべく明るい声で通話をきった。
一向に止む気配を見せない風景に、溜息ばかりが漏れる。バレー部の友達は方向が逆だし、伊作は家だし、置き傘だってない。きっと傘立てには何本かあるだろうけれど、他人のものを勝手に使うのは生理的にどうしても嫌で、すぐに選択肢から外した。
こうなったらもう濡れて帰るしかないが、制服は濡らせない。さて、どうするか。

どうしようと暗くなった空を仰ぎ見ると正面の校舎、2階の窓から此方を向く人影が映った。
図書室にいる、長身の茶色のセーター。あれは。

「…長次」

パクパク口を開けて何かを言ってるみたいだけれど、雨音が酷くて全く聞き取れない。それでも必死に目を凝らして唇の動きを追った。
多分、何でそこにいるんだ的な何かだろうと思って大声を上げる。

「傘無くって帰れないー!」

小平太が叫んだ数秒後に、窓から長次の姿が消えてしまった。カーテンが引かれ真っ暗になってしまった窓をただただ見つめていた。
時間はもう七時近い。きっと今日は図書当番で、施錠の確認の為に窓に寄ってただけなのかもしれない。だからきっともう帰ってしまった。

もっと見てたかったなぁ。
クラスが違うから滅多に顔を合わせる事もないし、部活も委員会も全く違う。偶に見かけたとしても、それは後姿だったり横顔だったりで、遠巻きでも今日のように正面から見たのは久しぶりだった。
長次を目で追うようになったのはいつからだったか。多分、すごい無意識で追っていたんだと思う。それは伊作に「いつも見てるね」と突っ込まれてから気が付いたくらいで、自分でもどうして長次の姿を探してしまうのか全くわかっていない。
どうして見ちゃうんだろう。見てほしいと思うんだろう。
セーターを返してしまった時点で二人の間には接点なんて無いのに、心にぽっかり穴が開いてしまったみたいで、酷く空しい気持ちになる。
視線はすっかり地面に落ちてしまった。

ザァザァと勢いの増す雨に濡れて帰るのも良いかもしれない。

小平太にしては珍しいくらい自虐的な考えに、なんだか酷く泣きたい気分になった。

「…七松」

雨音が響く中で、その声だけが透き通って聞こえて、勢い良く顔を上げる。
そこには、長次が居た。
走ってきたのか肩で息をしているし、委員会でしか着ないといっていたセーターすら着たままで、学生服は小脇に抱えたままだった。傘を差しているのに肩は酷く濡れていた。

「……なんで」

どうして此処に来たんだ?
疑問はあるのに喉に突っかかって言葉にはならない。鞄をぎゅうっと握って長次の双眸だけをただ見つめていた。

徐に傘を差し出されてぎょっとする。傘、傘だ。けれど、それは今、長次が差している傘だ。グイッと差し出されて、正直戸惑う。
これを渡したら長次の傘がなくなってしまうのではないか。それとも予備を持っているのか。
どうしても受け取れずに、かといって何を話していいのかもわからなかった。
先に口を開いたのは長次だった。

「傘、ないんだろう」
「そうだけど、でも長次は…」

長次の肩が揺れてうっかり口走った自分を咎めたい気分に陥る。
なに、馴れ馴れしく呼んでるんだ。
長次と小平太は友達でもなんでもない。二言三言、言葉を交わした事があるくらいのただの同級生だ。ただのその他大勢の一人に過ぎないのに。

「…すまん、中在家だったよな!」

できるだけ笑顔で訂正と詫びを入れる。
文次郎がそう呼ぶから、つい、と嘘を吐いた。文次郎は長次の事を「長次」と呼ぶけれど、小平太がそう呼ぶのは影響を受けたからじゃなかった。そう呼びたかった。それだけだ。
心の中で呼ぶ分にはどう呼んだって構わないだろうと高を括っていればこの様で、恥ずかしくて居た堪れない感情ばかりが込み上げてくる。
もう心の中でも長次って呼ぶの、やめよう。

「…別に、構わない」
「え?」
「長くて言いにくいだろう」

それは、名前で呼んでも構わないって事なんだろうか。
長次、長次って呼んで良いのか。
心の奥がぽわっとして、顔が熱くなった。


バケツをひっくり返したような強烈な雨音に、何処かに飛びかけた意識が戻った。雨は先刻よりも酷くなっている。
そして長次の肩も傘を差し出した分濡れていて、ブラウンのセーターを色濃くしていた。
突き出された手に自分の手を重ねて、やんわりと押し返した。

「傘は受け取れないよ」
「でも、」
「長次の分があるなら遠慮なく借りるけど、無いって言うなら嫌だ」

元より自分が悪いのだから、濡れて帰るのは仕方ない。けれど、それで長次がずぶ濡れになるのはもっと嫌だった。

「私は大丈夫だよ」

だから帰っていいよと笑うと、目前の彼は困ったように顔を歪めた。

「……じゃあ、家までくるか?」

近所だから、傘を貸す。
その誘いはとても魅力的だった。




長次の家は本当に学校の近くで、正味五分も掛からなかった。

男と歩いた事が無いかと聞かれたら、答えは否だ。比率的には圧倒的に男友達の方が多いし、遊ぶ事もあるから必然的に肩を並べてほっつく事だって度々あった。
慣れているはずなのに、こうして長次の横に並ぶのは何故だか気恥ずかしくてしょうがない。自分よりも少し高い肩に、傘を持つ手が大きい事に、いちいち心臓が跳ねる。
どうしたんだ、私は。
普段なら意識しない事なのに、心臓が五月蝿くて仕方なかった。それを誤魔化したくてどうしても口数が増えてしまう。それも出てくるのはどうでもいいことばかりだった。
ほんの少しの時間だったのに、休み時間よりも、試合のラスト5分という時よりも、他のどの時間よりも長く感じた。



「ちょっと待ってろ」

玄関の戸を開いた先でそう言われ、忠犬のように大人しく待つ。長次は乱暴に靴を脱いで家の中に入ると、白いタオルを持って戻ってきた。渡されて一瞬迷ったけれど、横風で飛んできた雨粒に髪も服もぐちゃぐちゃだったのでありがたく借りる事にした。
タオルから香る匂いは家のものとは違ってすごく新鮮だ。あのセーターみたいにふかふかしていて、何の洗剤を使っているんだろうとぼんやり思った。


「あらあら、お友達?」

リビングからひょっこり顔を出したのは多分長次の母親だ。
友達かといわれたらそうでないような、そのような。まだ友達といえるような間柄に無いにしろ、黙っていては失礼にあたる。とりあえず「七松です」と会釈をした。

「濡れちゃってるじゃない、上がってちょうだい」
「え、でも、傘借りたら帰ります」
「そう言わないで、ね?」

有無も言わさない勢いの笑顔に押し切られる形で、長次の部屋に上がる事になってしまった。


着替えてくるという長次を一階に残して、二階へと案内された。

長次の部屋は本当に必要最低限のものしか置いてなくて、例えばテレビゲームが差しっぱなしになっていたりとか、テーブルに雑誌や漫画が置かれているなんてことも無く、生活観なんて欠片も感じられないくらい整っていた。唯一目立っている家具は大きな本棚で、そこには分厚い難しそうな本がたくさん並んでいる。
見てるだけで頭痛くなりそう。
…とは言わないでおく。

そういえば、と湿った制服に目をやる。それはすっかり濡れてしまっていて気持ちが悪い。
鞄の中を漁ってジャージを見つけると、引っ張り出して確認した。部活で多少汚れているもののビニール袋に突っ込んでいたおかげで濡れてはいない。
静かなままのドアを見つめる。鍵はついていないけれど、階段を上る音もしないし、どうやら長次はまだ戻って来ない。大丈夫。
今のうちにと制服のボタンに手をかけた。

昔から女子が普通に感じる羞恥心は薄かったと思う。肌が見えても下着が見えても「恥ずかしい」というよりも「公害でごめん」みたいな、申し訳ない気持ちが先に立っていた。だから中学でも平気で教室で着替え(制服の上から体操着を被って、脱ぐって方法だったけど)をよくしていた。さすがの伊作もこれには顔を顰めていたけれど、減るもんじゃないし別にいいと思っていた。
だからこそ、男の部屋で服を脱ぐなんて行為も躊躇い無く出来た。

ブレザーとカーディガンを床に落として、ぺたぺたして気持ちの悪い靴下も脱いでしまう。下着は何とか無事らしいのでホッとした。
湿り気を帯びたブラウスのボタンを上から順に外していく。元々一番上は外しているので二段目からだ。
二個三個、四個目に掛かった時に、ドアの開く音が聞こえてビックリした。振り返った先には長次がいて、顔を真っ赤にして口をパクパクさせている。
なんだか金魚みたい。

「…!な、あ、すまないっ」

顔を逸らされて脱ぎ掛けだったことにようやく気がついた。
でも上も下もちゃんと着てるし、まぁボタンは途中まで外れていてきっちり着込んだいつもよりかは肌の露出も多いけれど、下着を晒してるわけでもなければ裸体なわけでもない。

「そんな謝んなくても、私が悪いんだから。ていうか見たくないもん見せてごめん」
「いいから、早く何か着ろ!」
「わかったから、長次も突っ立ってないで入ってきなよ」

言うだけ言って背を向けて座りなおすとジャージを羽織った。そして途中になっていたボタンを全て外す。
後は腕を抜くだけだった。

「…いつもこんなことしてるのか?」
「え?」
「そうやって、男の部屋で簡単に脱ぐな」

声と共に肩を掴まれてバランスが崩れ、派手な音を立てて倒れてしまった。硬い床に背中を打ち付けて、一瞬息が詰まる。

「…いったぁ」

何回か瞬きをすれば、煌々と光を点す蛍光灯が目に入ってきた。体全体に掛かる重みに、近くに感じる体温。
どうやら押し倒されたみたいだ。

倒された拍子に引っ掛けていただけのジャージはどこかに飛んでしまったし、ブラウスははだけてしまって肌が剥き出しになっている。スカートだって中途半端に捲れ上がって、ただでさえ短かったそこからはいつもよりもずっと素足が伸びている。

あられもない姿とは、こういうのを言うんだろうか。
今まで恥ずかしいなんて思った事は無い。ないのに。

足と足の間に長次の膝が入り込んで、ぎくりとする。
長次の髪や息が時折首に触れてこそばゆいし、両腕に大きな掌が掛かっていてびくともしなかった。

「…恐いくないのか」

恐いか恐くないかの二択なら、選択肢は一つで恐くは無い。
けれど今まで感じた事の無い何かが体の奥から込み上がってきて息がうまく出来なかった。これが長次の言う恐いなのか、恥ずかしいなのかはさっぱりわからない。けれど早鐘を打つ心臓に耐えられそうもなかった。

「なにされるか、わかってるのか」
「…わかんないかも」
「手込めにされるかもしれないんだぞ」

その言葉に、昔の伊作を思い出す。ベットに倒されて伸し掛かられて、と泣いて抱きついてきた伊作。恐かったと肩まで震わせていた。
ここは床の上だけれど、こういう状況だったのだろうか。伊作は恐怖で青ざめていたけれど、今の自分はどちらかというと赤い顔をしてるんじゃないかと思う。嫌悪感は無い。

「長次になら、いいかも」

覆いかぶさってくる長次の影に思わず瞼を伏せた。




ひどく甘ったるいばかり






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2010/9/16


手込めって、言い方古いな。




title:確かに恋だった



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