春の終わりと夏の兆しが見え始めた五月。新緑のまぶしいこの季節の空気は、洗いたてのシーツのような清潔さだった。それが、一日の勤務を終えて疲弊を訴える体に染み渡る。かさぶたのように張り付いた疲労が洗い流されていくような心地だ。

緑のカーテンから零れる光と影、そして朝のさわやかさを全身に浴びながら、伊作は通勤ラッシュでごった返すプラットホームを目指す。


今日も実についてない一日だった。自転車はパンクするわ、ダッシュで飛び乗った電車は人身事故で遅延するわ、十分遅刻で朝から婦長に叱られるわ、傍若無人に廊下を突っ走る子供に激突されてナースカートをひっくり返すわ。その上、昼勤の定時上がりだったはずが、同僚の突然すぎる欠勤のせいでそのままずるずると夜勤までこなす羽目になってしまった。

まったく、散々な一日だった。

清々しい青空とは正反対の気持ちにくるまったままの重い体を引きずりつつ、人並みを縫うようにホームへと続く階段を一歩一歩のぼる。上りきったのと、ホームから電車が去っていくのはほぼ同時で、最後の最後までタイミングの悪い自分に呆れかえってしまった。

次の電車は五分後。ベンチは満員御礼なので、仕方なく自販機の側面に背を預けると、バッグを漁る。時間を確認するために探し出した携帯は、当然のように沈黙を守ったままで、侘しすぎる現実にへたり込みたくなってしまった。

寂しい独り身生活を続ける伊作には、ルーチンワークのように定期連絡をよこしてくれる決まったお相手などいない。それでもつい半年前までは小学生からの幼馴染たちから代わる代わるメールやら電話やらが入っていたし、映画やら買い物やら居酒屋やらそこそこお誘いがあった。しかしながら、ここのところはそれすらさっぱりで、仕事に追われる日々は高速回転で流れていくのに、どこか取り残されてしまったような気持ちでいっぱいだった。

二十二歳。高校を卒業し、ストレートに大学へ進学した友人たちは、今頃は就職活動に奔走しているのだろう。自分だって一年前は研修やら実習やらでろくすっぽ連絡などしていなかったのだから、人のことをとやかく言えた義理ではない。けれど、それでもどこか寂しい、と思ってしまうなんて。勝手すぎる自分自身に、もやもやした気分が広がって、自然と眉間にしわが寄ってしまう。

メール画面を呼び出すと、受信フォルダの一番下にカーソルを合わせる。そこには分別が苦手な自分が唯一振り分けたフォルダがあった。二重丸の記号マークで名前を隠したそこにあるのは、上から下まで全てが留三郎からのメールばかりだ。

連なるのは内容など特にない、特別でもなんでもないただのメールばかりだ。けれど、それは伊作にとって宝物と同等の重みがあった。
飲みに集まるからお前も来いよ、なんていうお誘いメールだとか、公園にいた猫の写メだとか。仲の良い友人に送るような、他愛のない文面。友人が友人に送る普通のメールだけれど、それでもそれは伊作にとって大切なもので、今の自分を支える唯一無二のものだった。



小さな田舎町で育った伊作と留三郎は、二十年来の幼馴染だった。
幼い頃は、二人して泥んこになるまで原っぱを駆け抜けて、帰宅の遅さにお叱りの言葉を受けたのは一度や二度ではない。
ガミガミとお小言を並べる母親たちの目を盗んで、二人で目配せして、「やっちまったなあ。」なんて笑いあって。もちろん、そんなやり取りなんてお見通しの母からは更にきついお灸をすえられたわけだけれど、それだって今思えば大事な思い出の一ページだ。
友人というよりかは兄妹のような関係だったと思う。家は隣でも近所でもなかったけれど、母親たちの仲が良かったせいか、一緒に過ごした日々は他の友人たちの比ではない。それこそおむつ姿の頃から二人一緒に一枚の写真に納まっていたほどだ。
学区内で一つしかない保育園、小学校、中学校を、同じように過ごしてきて、いつだって「しょうがないやつだ」と不運まみれでドジな自分の手を引いてくれる留三郎は、伊作にとって兄か弟のような存在だった。そして、仕方ないというスタンスで常に隣にいてくれる留三郎も自分と同じ気持ちだと信じて疑わなかった。


それが崩れたのは、十七の冬。世間がバレンタインで浮かれ返っているその日、いつもの気軽さで家族にあげるのと全く同じブラウニーの包みを留三郎に差し出したときに起こった。

「好きだ」

まっすぐにこちらを射抜いて、留三郎はそう言った。
なにを言ってるのか正しく理解するのにどれくらいかかったのか。「え?」とわけのわからない風に首を傾げると、留三郎から追い打ちをかける「好き」がまた一つ注がれ、頭の中で糸が交錯し絡まっていった。

「幼馴染とか、友達じゃなくて、俺はお前のこと好きなんだよ」

もう、ずっと前から。そんな告白を受けて、なぜか思い出がずたずたにされたような、裏切られたような気分が広がる。

なんでそんなこと言うの。ずっとずっと友達だったのに、なんでそれを壊すの。

兄妹のようだと思ってきたのは自分だけで、留三郎が全く別の目で見ていた事実に、秘密を共有して、悪だくみを重ねてきた時間が潰されてしまった。そんな被害妄想が、腹のあたりをグルグルと泳ぐ。同時に、留三郎が遠くなったような気がして、寂しさに耐えるように奥歯を噛んだ。

僕は恋愛なんて知らない。知りたくない。まだここにいたい。

幼い頃、無邪気に手を繋いでいたあの頃のように、きらきらしたままの場所にとどまっていたかった。新しい関係に、作り変えたくなかった。

「……悪いけど、友達としてしか、見れない」

留三郎の目を見れないまま、それでもはっきりと告げる。留三郎が耐えるように拳を握ったのが見えて、そこからも目を逸らすように薄汚れた床に視線を落とした。

残酷な言葉だという自覚はあった。
本当なら自分がどう思っているのか。そこを一番に考えるべきだった。なのに、いつまでも子供の席を譲りたくない自分は、なによりも居心地の良さばかりを取ってしまった。

そんな我儘さだけを含んだ返事は、鋭利な刃物に他ならない。
けれど、どうしても変わりたくなかった。

恋と友情の区別もつかないほど子供だった自分が出した答えは最低なもので、そして、それに後悔することになったのも、本当にすぐのことだった。





「留三郎に女が出来た!」

そんな知らせが舞い込んできたのは、あの告白からほんの一か月後のこと。ホワイトデーの翌朝、教室に飛び込んできた友人の手によってもたらされた。

「知ってるか? 相手の女、チョー美人! しかも年下! でもって頭もいいってさ」
「…………」
「スタイル抜群で、性格もいいって話だぞ。まったく仙蔵みたいなやつだよなー。まあ、仙蔵は性格がアレだけど」

嘘みたいに完璧だよな! 会ってみたい! と、留三郎の春を祝う気満々の小平太とは真逆に、伊作の心には絶対零度のブリザードが吹き荒れる。小平太の、「伊作もそう思うだろう?」に相槌を打つことも、喜ぶ振りをすることすらできなかった。

相手の女が痴漢被害にあってるところを助けたのがきっかけになったらしい。それからなんとなく挨拶を交わすようになり、会えばそこそこ会話する関係に発展。最終的には彼女からの熱烈なアプローチに、留三郎が頷いた。と、懇切丁寧に小平太が教えてくれた。

まったく留三郎らしいなあと思う。悪の根源を撃退して、「大丈夫か」と伸ばされた手。笑うと少し幼くなる表情に、きっと彼女はイチコロだったんだろう。
彼女を助ける留三郎の姿がありありと想像できて、笑えるのにどこかチクチクとした気持ちに顔が歪んだ。

想像するのは容易いのに、なんでこんなにも息苦しくなるのか。つらくなるのか。
留三郎に恋人が、彼女が出来た。事実を反芻すればするほど、その軋みは大きくなり、小平太から生み出される二人の馴れ初め情報や彼女情報を耳に入れるのがきつくなっていく。その間も小平太は嬉しそうに話していて、対極の反応を示す自分に違和感ばかりが増していった。

友人のおめでたい話じゃないか。祝うのが筋じゃないか。祝うべきだ。

小平太の様子は至極当たり前のもので自分もそうすべきだと思うのに、なぜだろう。どうしてもそれが出来なかった。

痛い、心が痛い。ぎしぎしと悲鳴を上げる。

そのうちに、やめて、もうやめて。言わないで。聞きたくなんかない! そう叫び出しそうになって、「保健委員の仕事、あるんだった!」と嘘の言い訳を仕立てあげ、小平太から逃げるように教室を飛び出した。「廊下を走るんじゃない!」と学年主任のお小言が飛んできたのにも気が付かず、人並みに逆らうように走って、走って。



行きついた先は、被服室だった。

一年生と、選択科目でしか使われないこの教室は、留三郎がサボりに使っていたお決まりの場所だ。

「お前と俺だけの秘密な。」
人差し指を立てて、こっそり教えてくれたことを思い出して、ますます息苦しくなる。鼻の奥がツンとする。
嫌だ、泣きたくないいのに。
そう思ってるうちに塊となって零れた涙は、ブラウンの木目にいくつもの斑点模様を作っていく。

「…………っふ、」

二つ、三つと落ちた涙の跡から目を逸らすように、膝を抱えて蹲る。自分の肩をぎゅっと抱く。

嫌だった。留三郎が、他の人のものになってしまうなんて。留三郎の隣に、自分以外の女がいるなんて。留三郎が、自分以外の女に笑いかけるなんて。自分以外を、好き、だなんて。

たった一人、机の角に隠れて子供みたいに泣いて、泣いて、泣いて。

そこまできてようやく自分の気持ちに気づいたのだ。


近い。近すぎて、全然気が付かなかった。一緒にいられるのが当たり前になってたせいで、それが特別なんだと、その特別が大切でたまらなかったと、気が付かなかった。わからなかった。

なんて馬鹿だったんだろう。

ぬるま湯につかった幼馴染という枠が、居心地良かったから。
幼馴染という当たり前を壊すのが、怖かったから。
男と女になるのが、恥ずかしかったから。

馬鹿だ、馬鹿だ。僕は大馬鹿者だ。

流れた涙は止まらない。パタパタと溢れるそれを甘んじて受けながら、ずっと留三郎に恋していたことを今更のように思い知った。





留三郎が好き。そんな自分の恋心に気づいてから、かれこれ五年は経つ。
その気持ちを伝えたことは、一度もない。というか、一度はバッサリ断っておきながら、どの口でそんなことを言えるというのか。伝えられるわけがない。そんなこと出来るわけなかった。

留三郎を振った後も、伊作たっての願いで友達としての関係は崩れていなかった。
飲み会があれば声がかかるし、逆もまた然りだ。高校を卒業して一年も経った頃にはメールでのやり取りも復活したし、外側だけ見れば腐れ縁の幼馴染の関係を保っている。

あれから留三郎が彼女とどうなったのか、本当のところはよく知らない。別れてしまったのかもしれないし、いまだ継続中なのかもしれない。別の彼女がいるという可能性だってある。
小平太は色々と裏事情を知ってるようだったけれど、鈍いようで聡いあの子は伊作の気持ちなんかとうにお見通しのようで、だからこそ、色恋沙汰の、特に留三郎に関わることはなに一つ言ってこない。その気遣いは嬉しかったけれど、そうやって逃げるしか選択肢がない自分の現状を思い知らされているようで、それはそれで伊作を締め付けるようだった。


留三郎専用のメールフォルダ、その一番上にある受信メールの日付は、もう五か月も前のものだ。
就職活動が相当忙しいのか、この日を境に留三郎からの連絡はぱったり途絶えてしまい、伊作の気持ちはすり減るばかりだ。

「飲み会、七時から。来れたら来い。」とだけ綴られたメールは、なんてことない連絡事項だけれど、それを見れば何となく元気が出るというのだから、年齢にそぐわない純愛っぷりに笑うしかない。

出来ることなら会いたいと思う。会ったところで、ただの幼馴染の距離感に心を痛めるのが関の山だけれど、それでも一目、会いたいと願う。

吐きだす息は今日も重かった。



待ちに待った電車が滑りこんでくる。同時に手の中の携帯が揺れ出して、うっかり落としてしまった。
固いコンクリの上を跳ねた可哀想な携帯は、いまだに震え続けている。電話だ。職場からだったらまずいと、着信相手を確認することもなく通話ボタンを押す。
もしもし、の後、電波が連れてきた声は今まさに愛しい、会いたいと思っていたその人で、心臓を銃弾で打ち抜かれたような衝撃が走った。

『…………よう。久しぶり』

数か月ぶりの声色に、時が止まる。なんで? と、嬉しい。が、マーブル模様になって、心にさざ波を立てる。

心地よいテノールだった。
安心感を与えてくれるその声色に、さっきまで疲れ果てて死にそうだった心に潤いが加わる。うっかり泣きそうになって、慌てて頭を振った。

いま、大丈夫か? と問われ我に返る。慌てて、平気だと伝えると、自分を招くように開いた電車のドアから背を向けた。

『なあ、今から出てこれねぇ?』
「え?」
『もしかして今から仕事? 用事とかある?』
「ううん。仕事上がりだから、それはないけど……」

時間的には確かに問題ない。ないけれど、と、キヨスクのドリンクケースに映りこむ自分を見る。
通勤だけだと信じて疑わなかった本日の服装は、とてもじゃないけれど留三郎に見せれたものじゃなかった。三年前にセールで買ったスカートは大分くたびれているし、朝冷え対策で羽織ったパーカーは色気も何もない。おまけに夜勤明けで疲弊しきった顔に、崩れきった化粧。これで留三郎に会うなんてとんでもなかった。
せっかく会えるのならば、可愛い自分でいたい。こんな社会に疲れきったぼろ雑巾のような自分は見せたくない。
そう思ったのに、「今度にしてほしい。」と伝えるより早く、留三郎の切羽詰った声が届く。

『頼む。…………話があるんだ』

苦しそうな、思いつめたような声色のそれに、嫌だなんて言えなかった。



***



話ってなんだろう。考えてみたところでわかるわけないのに、気になってしまってどうにも落ち着かない。五ヶ月振りの声。加えて、いつになく真剣さを帯びた様子に動揺が襲う。吊り革を持つ指先が不自然なほど震えて仕方なかった。

いつも降りる駅をスルーして、留三郎ご指定のカフェに足を運ぶ。
そこは二人の家のちょうど中間地点にあって、学生時代に何か訪れたことがある。嬉しいことがあった時、凹んだ時、何かあるたびに窓際の席を陣取って、他愛もない話をして、笑って、時には泣いて。色んな思い出が詰まっている。伊作にとっては思い出の場所だった。

最後に訪れたのは一年とちょっと前。春に巡ってきたお互いの誕生日を二人きりでお祝いした時だ。
「今年は、伊作の就職祝いも一緒な」
そう言って留三郎が贈ってくれたのはティファニーのネックレスだった。ハートのモチーフに、小さいけれど赤い石がはめこまれたそれは、どう見ても友人に贈るようなものではない。まるで彼女と錯覚してしまいそうな贈り物に、嬉しさと悲しさがごちゃ混ぜになった。

「つけてやるよ」
と、後ろに回った留三郎の手によって、華奢なシルバーのネックレスが胸元を飾る。
まるで恋人同士のようなやり取りだった。傍目には、二人きりの世界を作る甘い関係に見えたのかもしれない。それが証拠に、留三郎の手がうなじから離れたのと同時に、なぜか隣の席のカップルに拍手を贈られてしまった。
周囲の認識と現実の自分たちに悲しくなる。どんなに親しい間柄に見えようと、実際の関係は親しい気心の知れた友人でしかない。現実にそびえる越えられない壁をまざまざと感じて、泣きたい気持ちでいっぱいになった。
それでもやっぱり留三郎からの贈り物は特別で、外すことなんてできなかったし、嬉しいと思った自分の気持ちも偽れなかった。

そして本日も、首元を彩るのは留三郎が贈ってくれたそれだ。



はっきり言ってしまえば、あの時、告白でもされるんじゃないかと思った。疎い自分でもわかるほど高価なものをポンと差し出されて、それを期待するなという方がおかしい。けれど、残念ながらそんな色っぽい展開は皆無だった。
いつも通りに食事を楽しんで、いつも通り駅まで送ってもらって。その間、いつ来るかいつ来るかと心臓が壊れそうなほどのドキドキを味わったけれど、期待した言葉が留三郎のくちびるから紡がれることなかった。何事もなく別れの時間を迎える。あの時の絶望した心地は、一年経った今でも忘れない。

あんな絶望を、今日も味わうことになるんだろうか。

留三郎の話したいことにいい予感が見いだせなくて、足取りがどんどんと重くなっていく。就活の愚痴なら一足先に就職した自分より、今まさに同じ気持ちを味わっている友人たちの方が適役だし、そもそもその程度で呼び出されるとも思わない、と心の中でバツをつける。じゃあ、就職への切符をもぎ取った報告だろうか。いや、それだったらあんなに苦しそうな声になるわけがない。それとも、もっと別の何かなんだろうか。

二十二歳。適齢期には少し早い気がするけれど、早熟な友人たちは二十歳を過ぎたころには結婚している。そういう話なんだろうか。結婚とまではいかなくても、そういうことを考えてる相手がいる、とか、恋愛絡みの話だったりするんだろうか。そんな妄想がもくもくと湧きだして、タールをべっとりつけたように体が重くなる。

留三郎と恋愛の話をしたことは、一度もない。向こうがどう思ってるかなんて知らないけれど、伊作からすれば好きな相手の恋愛事情など、死んでも耳に入れたくなかった。それをもし、意中の相手自身から聞かされたら。それこそダメージは計り知れない。
そうと決まったわけではないのに、一度考え出した妄想は止まらない。駅からカフェまでの五分の道のりを倍以上の十五分かけて進むほどに、待ち構える現実が怖くてたまらなかった。

たっぷり時間をかけて辿り着いたカフェ。先に来ていたのは留三郎の方だった。一旦物陰に身をひそめると、ふう、と二、三回深呼吸を繰りかえす。恋する乙女から、友人の顔に切り替える。意を決して店内に踏み入ると、気が付いた留三郎が「こっち。」と手を挙げた。見慣れないリクルートスーツ姿に、嫌になるほど心が揺さぶられる。ときめく。

「それで、話ってなに?」

なんでもない風を装って向かい合う席に腰を落ち着けると、店員にカフェラテを頼みつつ、さっさと本題を切り出す。
いま、忙しいんじゃないの? とスーツを指して問えば、ため息交じりに「それはもう終わったから。」と予想外の切りかえしをいただいて、面喰ってしまった。

スーツ姿だったからてっきり就活戦線の真っただ中にいるかと思いきや、すでに戦線離脱したらしい。
話ってこのことだったのか。途端に緊張の糸が緩んで、強張っていた表情がするすると解けていく。

「内定貰えたんだ」
小さいとこだけど、と申し訳なさそうに零す留三郎の口から出たのは、確かに聞いたことがない社名だった。小さな設計事務所だけれど、そこで一年の頃からアルバイトをしていた留三郎は、上司の伝手とコネもあり、押し込んでもらえたらしい。普段の仕事ぶりを認めたからこそ斡旋してもらえたのに、納得していないのか、留三郎は、実力でもなんでもない。と居心地悪そうにくちびるを尖らせている。

先の見えない就職活動は苦しい。どういう形であれ、そこから解放されたのだから、普通だったら両手を広げて喜ぶ場面だと思う。なのに留三郎はちっとも嬉しそうじゃなかった。
そういえば、最初から表情にはどこか陰りがあった。急に不安になって「どうしたの?」と聞くと、今度は真剣な目で見つめられて固まってしまう。

「…………つけてくれてるんだな」
「え?」

なんのことを言ってるのかわからなくて首を傾げると、留三郎が自分の鎖骨を指して「ここ」と言う。同じ位置を探っていた自分の指先に、シルバーのモチーフが触れ、はっとした。

「ネックレス。つけてくれてるとは思わなかった」
「……っ。そっ、そんなの、貰ったんだからつけるのは当然じゃないか。留三郎から、貰ったんだから」
「でもさ、看護師ってアクセサリーとかダメって言うじゃん。今日、仕事だったんだろ?」
「……っ!」

丸っきり図星だった。

「わざわざつけたり外したり、とかさ。なんか、特別、みたいなんだけど」

心の真ん中を見透かしたような留三郎の言葉に、顔が見る間に熱くなる。焼けるように真っ赤に染まった耳とは真逆に、頭の中は言葉を忘れてしまったように真っ白に塗り替えられてしまった。それらしい言い訳も体裁も取り繕えないまま顔を伏せる。それはどこをどうみても無言の肯定で、わかりやすすぎる自分の反応に涙目になってしまう。うっかり泣きそうになってしまい、耐えるように奥歯を噛んだ。

人の気持ちを汲むのが得手な留三郎のこと。ここまであからさまに動揺して、伊作の気持ちに気づかないわけがない。

どうしよう。そんな気持ちが伊作の全身を支配する。
数年前、あんな最低の振り方をしておいて、今更好きだなんて。
都合の良すぎる好意を向ける自分を、留三郎はどう思っているのか。留三郎がどんな顔をしてるのか、怖くてたまらない。どうしても顔を上げることが出来なくて、スカートを握りしめる手ばかりが網膜に焼付く。

重苦しい沈黙の後、留三郎が長い長い溜息を零す。

「……やべえ。すっげ、嬉しいんだけど」

そうしてまた、お互いに無言になってしまった。

嬉しいって、どういうこと。それは、嫌じゃないってことなの?

ばくばくと高鳴る心臓のせいで、耳元までうるさい。

「内定取れたら、言おうと思ってた」
「…………なにを」

留三郎の目どころか、姿の一部も見れないまま、つっけんどんな返事をする。伊作の心中などお見通しなのか、留三郎は軽く吹き出すと、「こっち向いて」と伊作の手を取った。留三郎の大きな手のひらが、伊作のそれと重なる。

「……伊作。お前にとって、俺は友達かもしれないし、まだ社会人にもなってない俺が、こんなこと言うのは不謹慎かもしれない。けど、」

ひどく真剣な声だった。
おまけに、こんな切り出し方をされて、その先が見えないほど子供のつもりはない。さすがにそこまで鈍くはない。

不安と期待が入り混じる。指先まで震えそうな気持ちでいっぱいになる。
はち切れそうになる心臓を宥めるように何度か深呼吸を繰り返すと、こちらを真っ直ぐに射抜く留三郎の双眸とぶつかって、金縛りにあったように息が詰まった。
全力疾走したように鼓動が早くなる。ドキドキで痛くなる。

これは、まさか。もしかして、もしかしなくても。

ごくり、と喉が鳴る。
真剣な瞳で見つめる留三郎が、伊作の手をぎゅっと握った。

「結婚を前提にして、付き合ってほしい」

まるでドラマのワンシーンを切り取ったかのような告白と、それを彩る眩しい緑の木漏れ日。絵に描いたように理想的なシチュエーションと、夢にまで見た現実に、五年越しでようやく実を結んだこの恋を、一生大事にしよう。そう心に誓った。





いまでもあなたが好きです









****************
2012/11/2



留伊オンリー無配に加筆修正

ありがとうございました!



back