期末テストまであと一週間と差し迫った頃だった。

「たまには勉強しよう」

まるで、幼い子供達がする明日の約束事をするような口振りで、長次はさらりと言った。



普段は部活でつぶれる放課後も休日も、テスト週間になればテスト勉強という名の空白タイムへと早代わりする。二学期までのこの期間は、小平太にとっては家での自主練習、もしくは伊作と遊ぶ時間だった。素直に白状すれば、勉強なんて殆どしていない。それでも赤点をギリギリで回避し続けてこれたのは、前夜に行う恒例のヤマが、恐ろしいほどの高確率で当たるからに他ならなった。

長次は普段から真面目に勉強しているからなのか、それとも元々の出来が違うのか。個人情報保護が五月蝿いため、掲示板に成績が張り出されることがなかったから全く知らなかったけれど、長次の口から学年順位を聞いた時は、さすがの小平太も慄いた。長次は常に上位にいるらしい。一学年に何百人もいるのに順位は良ければ一桁、悪くても二桁と、長次はなんでもないといった顔で言ってのけた。どっちかといえば下から数えた方が早そうな位置にいる小平太は、すっかり立場がなかったし、おそろしくて順位など言えたもんじゃなかった。傍らに本を抱えてる長次は小平太のように勉強嫌いではないとは思っていたけれど、あまりの成績の落差にひっそりと落ち込んだのは内緒だ。

そうして向かえたテスト週間初日に長次が言った言葉が「勉強しよう」という、小平太にとっては死刑宣告に近いそれだった。


部活漬けの小平太が長次と共にいられる時間は少ない。平日は長次が当番で遅くなれば一緒に帰ったり、休日は小平太の部活が終わった頃に公園のベンチで話をしてみたり、日常のささやかな時間でしか一緒に過ごした事が無かった。日が短いからと、彼はいつだって早くに駅まで送ってくれるのだ。
それが長次の優しさなのも、帰宅が遅くなるのを心配してるのもわかっていたけれど、それでももう少し一緒に居たいなぁと小平太は常々思っていたから、今回のテスト週間はちょっと嬉しかったのだ。なのに。

…テスト勉強って、ないだろ。

小平太は心底げんなりした。
学生の本分が学業にあるのはわかってる。長次の意見はもっともで、それこそがテスト週間を設ける意義なのだから、反論のしようもない。
けれど、これが遊びへの誘いだったらどんなに良かったか。こういう真面目さが長次の長所だとわかっていても、落ち込む気持ちは払拭できそうもなかった。
それでも一緒にいられる時間は貴重だと思いなおして、彼の誘いに大きく頷いた。







「…てわけで、長次と勉強する事になったから」

だから一緒に帰れない、と目前でお昼御飯という名の菓子パンと格闘する親友に告げれば、物凄く嫌そうな顔をされた。
以前ならば、テスト週間は決まって伊作と帰途についていた。家は近所なのに帰宅部の伊作とは登下校の時間も合わない。付け加えて言うと、長次と付き合い始めてからは学校にいる以外の時間を彼と過ごしていたものだから、必然的に遊べる時間は減っていた。
友情より男を取った事を怒っているかと思えば、それは小平太の杞憂に終わった。

「勉強するなら人の多いところでしなよ」

そう言って伊作は二つ目の菓子パンに手を伸ばしている。破った袋は新作と銘打ったメロンパンで、生クリーム入りとでかでかと書かれていた。そんな甘いものだけでお腹は満たされるんだろうかと見当違いな感想を思い描いていると伊作は、二人きりは駄目だよ、と溜息をついた。

「なんで?」
「危険だからだよ」
「は?」

勉強するだけなのに何が危険なのか、どうして二人きりがいけないのか、伊作の言いたい事がさっぱりわからなかった。
だって、勉強だ。見たくもない教科書や参考書と睨めっこをして、洗い立ての真っ白いタオルのような何も書かれていないノートにシャーペンを走らせるだけだ。長次と一緒というオプションがなければ土下座をしてでもお断りしたいそれをするだけなのに、何に対してそんな危機感を抱けばいいのだろう。
わけがわからず唸っていれば、伊作が手招きをする。促されるままに傍に寄れば伊作がこっそり耳打ちをした。

「だから、部屋に行ったら、だめだって事だって」
「…え?なんで?」

伊作の言う部屋というのは、きっと長次の自宅を指しているんだろうけど、何故だめなのかがさっぱりわからない。

学校からも近いそこを勉強場所に指定したのは、他ならぬ小平太自身だった。
最初に場所を提案したのは長次で、それは図書室や図書館といったいかにもな場所だったけれど、小平太からすれば図書館なんて仰々しい場所はごめんだったし、だからといって教室や図書室も嫌だと首を振った。どうにも場所の折り合いがどうにもつかなくて、「なら長次ん家でいいじゃん」という至極軽いノリで小平太が言ったのは昨日の事だった。
長次はその言葉に難色を示していたけれど、無理やり押し切る形で約束をしたのだ。その時も彼の気持ちが分からず小首を傾げたけれど、わからなければいい、と幼子にするように軽くあしらわれた事を思い出してちょっとだけ嫌な気分になった。
伊作の言いたい事と、長次の思ったものが同じような気がして、なんだか腹立たしい気持ちになる。

「はっきり言わなきゃ、わかんない」
「……だからね、」

部屋に行ったら、またそういうことになると思うよ。

伊作の口から紡がれた言葉は控えめ気味の声色だったけれど、それは確かに小平太の耳に届いた。
そういうこと?それってなんだ?どういう意味?
曖昧な言い回しに困惑していれば、伊作から駄目押しの一言が降って来た。

「セックスって意味」

その言葉に、手にしていた箸が床に転げ落ちた。



長次の家に行ったのは後にも先にも付き合う前の一回のみで、雨に濡れながら一本の傘で帰ってそのまま彼の部屋でいたしてしまった。
できたら頑丈な金庫に入れて二度と出てこないように葬り去ってしまいたい過去を思い出して、顔に火がついたように熱くなるのを感じる。
バレンタインから始まった人生初のお付き合いが、あまりにも健全そのもの過ぎて、小平太本人はすっかりそのことを忘れていた。友達から恋人に昇格したその日こそ唇を合わせたものの、そこから先は手さえ繋いでいない。会うのはいつだって公園のベンチや、人の溢れる校内ばかりでそういう雰囲気にすらならなかったからだ。
だからこそ忘れていた。一足飛びで一線を超えてしまったあの情事を。

長次の部屋に二人きりで、また同じことにならないという保証は無い。
きちんとお付き合いしているのだから、そういうことがあってもいいんだろうけど、また同じことになって平常心を保てるとは到底思えなかった。初めて体を繋げたその日の事を重大に捕らえられなかったのは、そのときの記憶が殆ど無かったからで、次に同じ事が起こったらあんな夢見心地ではいられないはずだ。

「私から言い出したのに、今更場所替えなんて出来ないよ」

それこそ今になって言えば、変に意識してるのがバレバレで、余計に変な空気に包まれそうだ。それだけは回避したくて口を尖らせる。
伊作は小平太の迂闊さに呆れているようでその視線は聊か冷たく、小平太に痛いほど突き刺さった。

「どうしたらいいかなぁ…?」

現状を打破したくて困ったように頭をかいて問えば、にっこりと笑って伊作が言葉を返した。

「別の勉強にならないように、気をつけてね」

伊作の笑顔がこれほど憎いと思ったことは今までなかった。













結局、場所を変えて欲しいとは言えないまま、ズルズルと放課後に突入してしまった。
伊作をネタにして図書室での勉強会に変えてもらおうと思っていたのに、彼女は「用事があるから」と、笑顔でさっさと教室から出て行ってしまった。人を散々煽っておいてそれはない。甘栗色の後姿がどんどん遠ざかって、この九年間ではじめて憎たらしいと思った。
…本人には言わないけど。

そうして訪れた長次の自宅。前回同様に長次の母親が笑顔で迎え入れてくれたことに内心ホッとした。
親がいたらそんなことにはならないよなと楽観視したけれど、初めての時もいたことに気がついて、余計意識してしまった。逆効果ってこういうのを言うんだろうか。

意識するな!目的は勉強、勉強だ。

ぎゅっとこぶしを握って気合を入れなおす。念仏のように心の中で何度も何度も呟きながら、階段を一段づつ登った。






自覚と無自覚と本音









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2010/11/1



お互い意識してたら、可愛いと思います。




title:確かに恋だった



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