古めかしい門構えに、歩くたびにギィギィと音を立てる廊下。襖と障子で区切られた和室にプライベートなんて皆無だし、なによりも古いばかりの日本家屋なんてダサいの一言に尽きる。
窓を縁取るのは大掃除のたびに張り替える面倒くさい障子ではなく、色彩豊かなカーテンがいいし、畳に布団ではなくフローリングにスプリングのきいたベッド。爺ちゃん婆ちゃんの憩いの場になっている縁側よりも、バルコニーやウッドデッキがほしかった。そのほうが断然かっこいいし、それが留三郎の理想だった。昨日までは。





高校生活最後の夏休み。「一人じゃ勉強捗らない。っていうか、参考書読んでも暗号みたいでさっぱりわからん!」と、受験生とは思えない小平太の爆弾発言を皮切りに、仲間内で「じゃあ勉強会でもしようか。」という話になった。
そこで問題になったのは場所である。

「図書館だとうるさくなっちゃうよね」
「ファミレスとか?」
「んな金ねーよ!」

散々もめた挙句、貧乏学生には選り好みできるだけの選択肢もなく、「じゃあ、日替わりでそれぞれの自宅ということで。」で、決着がついた。ついたのはいいのだけれど、と留三郎は机に突っ伏して両手で頭を抱える。

一日目は言いだしっぺの小平太の家、二日目は長次だった。狭くて悪いな、と断りを入れて案内されたそこは市営団地で、おまけに小平太の家は長次の家の真上の階だと言う。それなら、てめぇら二人で勉強しろよ!という至極妥当なツッコミは、長次の「私ひとりでは手に負えない。」という悲壮感たっぷりな一言で納得せざるを得なかった。

団地なので家具やらインテリアで多少印象こそ変われど、二人の家の造りに差異はない。洋式のドアに、こじんまりとした玄関。フローリングの廊下は当然軋まないし、壁を彩るのは己が毎日目にする漆喰のそれとは明らかに違った。窓を覆うのだって、障子のように破れを気にする必要もない清潔感漂うカーテンだ。
(ただし、小平太の部屋のそれは、買い換えろよといいたくなるような大穴が開いていたけれど。)

三日目は文次郎の家だった。
失礼ながら、加齢臭でも漂ってきそうなオッサン顔の文次郎のこと、自宅はさぞかし年代物の日本建築かと思いきや、おもいっきり小洒落た洋風の一軒家で、顎が外れるかと思った。
太陽に映えるオレンジの瓦と、ベージュ調の外壁。縁取る窓枠は、真夏の雲のような白さだった。これは洋風というか、南欧風というか。申し訳ないけれど、文次郎のイメージではない。全然似合わない。この家で寝起きしている姿とか、まったく想像が出来ない。
家を建てたのは文次郎本人ではないのだから、この感想は見当違いだとは思ったけれど、そう思わずにはいられない。そして、そう感じたのは自分だけではなかったようで、仙蔵なんかはわかりやすく顔を背けて肩を震わせて笑いをこらえていたし、小平太にいたっては「すごい似合わないな!」と誰しも口を摘むんだストレートな感想を本人に浴びせかけ、拳骨を食らっていた。
庭には小さいけれどガーデニングスペースが設けられており、季節の花たちが花壇を彩っている。その横にある玄関扉もモダン。我が家とは真逆だ。純和風を通り越して田舎の古民家な自宅が正直恥ずかしくて仕方なかった。
よくわからない敗北感が、己を飲み込む勢いで湧き上がってくる。うらやましいのか、悔しいのか。あるいはそのどちらもなのか。なんにしても、自宅にコンプレックスしかない留三郎には、絶望の二文字しかなかった。

そして四日目の勉強場所提供者は、他ならぬ自分である。別に壁に大穴が開いてるだとか、雨漏りがするとかはないし、水周りだって綺麗にリフォーム済みだ。というか、たかだか勉強会ごときで、何をそこまで深刻になっているんだと思う。思うけれど、明日招く面子の中に、意中の相手がいるとなれば話は別だった。

ただの友人だった彼に、別の意味で惹かれはじめたのはいつごろからだったか。
同じクラスで前後の席で、ことあるごとに彼の不運という名のドジをともに被り、「勘弁してくれよ。」なんて思っていたのが、「仕方ないな。」に変わっていったのがいつからだったか。そんなことも思い出せないほど、長いこと恋している気がする。伊作との出会いは高校からだから、何年も慕情を抱いていた、というわけではないけれど。まったく、恋の深さは時間を錯覚させると思う。

そんな伊作が、つい昨日こんなことを言ったのだ。「こういう家、留三郎のイメージだなぁ。」と。留三郎自身が憧れるような洋風の文次郎の家をさして、キラキラした笑顔でそう言ったのだ。

そんな伊作を思い出して、再び頭を抱える。伊作が抱く留三郎のイメージと現実はきっと真逆だ。ただでさえ日本家屋な自宅がコンプレックスでしかなかったのに、ますます勉強会が憂鬱になる。

部屋の四方を襖やら障子で仕切られただけの自分の部屋は、友人たちのように壁で区切られたプライベート空間などとは程遠い。音漏れはひどいし、縁側や隣の客間を通して人の気配はダダ漏れだし、足元も板張りではなく年季の入った畳だ。当然ベッドなど置けないので、毎日のように布団を上げたり下ろしたりしている。収納はもちろん押入れだし、スタイリッシュな家具など全然似合わない。夏の夜は蚊帳を張って、蚊取り線香を焚いて。ベランダの代わりにあるのは庭が一望できる縁側だけだ。

…………ダサい。

溜息をこぼしつつ大の字になって寝転がると、天井からぶら下がる電灯が視界いっぱいに広がる。そこから釣り下がる紐からでしかスイッチのオンオフはできない。ダサい。ダサいという言葉しかもう出てこない。わずかな風に揺れる釣り紐と電灯を眺め、深い深いため息を漏らした。


そうして、空が明るくなり始めるまで寝られないほど憂鬱な一夜を過ごし、迎えた四日目。理想は洋風だった留三郎の固定概念は、驚くほど簡単にひっくりかえることとなった。

「わぁ! 広い! 天井高い!」

石畳の先にあるレトロすぎる引き戸の先、広さだけがウリの土間玄関に足を踏み入れた伊作が、誰よりも先に感嘆をもらしたのだ。
え、なにその反応。
どちらかといえば真逆の反応を予想していた俺にとって、目を輝かせて「すごい。なんかかっこいい。」を連発する伊作にただただ驚きしか生まれない。

昔ながらの日本家屋な我が家の天井は高い。そこから見える古めかしい梁。年季が入った柱。それらを仰ぎ、伊作が再び「すごい。」と言った。それに続くように今度は小平太が、「めちゃくちゃ広いな! 羨ましいぞ!」とおもいっきり背中を叩いてきた。……痛い。少しは手加減しろ。

畳六畳ほどありそうな土間には、普段通学で使っている自転車と母親愛用のママチャリ、その端には趣味の日曜大工で使う工具が置いてある。そして玄関の引き戸の先、一番目立つ位置には熱帯魚が泳ぐ無駄にでかい水槽が鎮座していた。その上、六人の高校男子が一斉に玄関に立っていても、この空間にはまだ余裕はある。とはいえ、ただ広いだけで土間玄関なんてすぐ汚れるし、掃除が大変だし、冬は底冷えするしで、いいところなんてほとんどない。ないのに、ないはずなのに、なんでだろう。伊作が「いいね。すごいね。かっこいいね。」と賛辞の言葉を綴るたびに、留三郎のコンプレックスを綺麗に上塗りしていく。本当にそれが素晴らしいもののように感じてしまう。

軋む床板を歩けば、「鴬張りだ!」とはしゃぎ、縁側から見える庭を見ては、「ここでお茶飲めたら最高だねぇ。」と伊作は笑った。蚊帳を張って寝るといえば、「秘密基地みたいだ。」と童心に戻ったような顔で瞳を輝かせた。

古くてダサくて、イマドキとは程遠い畳張りの部屋も、やたらと渋い絵の描かれた襖も、年に一度の張替えで手間のかかる厄介な障子も、自宅を彩るどれもこれもがコンプレックスでしかなかったのに、そのすべてが覆っていくなんて。まったく、恋という名の魔法は恐ろしい。