それは、いつもと変わらない昼休みのこと。いつも通り、購買で買ってきた焼きそばパンとメロンパンを平らげ、最後のチョコデニッシュに手を伸ばしたときだった。

「小平太って、爪の形きれいだよね」

何の脈絡もなく、突然、伊作がそんなことを言い出したのだ。
それまでの会話の流れは、数週間後に迫った夏休みのことで、それがなぜ急に爪の話に摩り替わったのかわけがわからない。だって、確かに数分前まで伊作は「塾と補講以外予定ないよー」と、実に受験生らしい嘆きを零していたはずで、「爪」などという単語はどこにも存在していなかったのに。

「…は?」

おもいきり首を傾げた言葉を返すと、伊作は「前から思ってたんだけどね、」と笑った。

「小平太って爪が長くて、形きれいだよ。僕の爪、丸っこいから羨ましい」

うっとりとした視線を指先に感じ、それに促されるように指を広げる。いくら褒められても、十七年付き合ってきた自分の爪は、やっぱり自分の爪でしかなかった。確かに縦の長さはあるかなあと自分でも思うけれど、それでもこれが羨望されるほどのものだとは到底思えない。綺麗だとも思えなかった。

広げた手は女にしては大きい部類で、正直可愛げの欠片もないと思う。対する伊作の手は、自分よりも一回りほど小さく、ぷにっとしていて柔らかく、手のひらを合わせたら、すっぽり隠れてしまいそうだった。

小さくて、柔らかくて、可愛くて、そっちのが断然いいじゃないか。

手だけじゃない。背に関してもなんにしても、小さいほうが女の子らしくていいじゃないか。と、再び自分の指先に視線を落とす。

上背も、手の長さも、大きさも、あればあるほど嬉しかった。身長で悩んだことや、ましてや小さくなりたいなんて思ったことはなかった。
そう、小さくなりたいわけじゃない。悩んでもいない。けれど、やっぱり、うらやましいなあ、とは思うのだ。

長次も抜きんでて高いけれど、並みの男子よりも身長のある自分と並べば、その差は伊作とわたしのそれよりもずっと小さい。もちろん長次のほうが高いけれど、それでも他の子たちのように、頭一個分とか、視線の先が肩だとか、そこまでの差はなかった。まじまじと比べたことはなかったけれど、多分、頭半分とか、その程度の差で、ヒールでも履いた日にはゼロセンチになりそうだった。
それがそこまで嫌というわけではない。けれど、やっぱり、ちょっとだけ、見あげてみたいなあ、という気持ちはあった。

自分を見上げて笑う伊作は本当に可愛くて、自分にそんな可愛らしさが出せるとは思ってないけれど、それでもいつもより低い位置から「ちょうじ、」って呼んでみたい。そう思ったのだ。
それは憧れに近い感覚で、いつもと違う角度から、長次を見てみたい、見てもらいたい気持ちが大きかったのかもしれない。…可愛い、と思われたかったのかもしれない。

らしからぬ乙女思考に、耳が熱くなる。それを隠すように、両手を目の前に掲げ、伊作の賞賛する自身の爪を眺めた。

「ねえ、小平太」
「ん?」

広げた指先越しに、笑顔の伊作と視線がぶつかる。
ニコニコと笑う伊作の手元には、およそ学校生活とは不釣合いな大きめの化粧ポーチが鎮座している。ポーチからお目当てのものを探し当てたらしい伊作が、何か企んでるような含んだ笑みを浮かべた。女の直感というべきか、はたまた動物的本能というべきか、伊作がこんな笑い方をするときは、大抵ろくなことにはならない。とにかく嫌な予感しかしなかった。そして、その予感は見事に的中した。

「マニキュア、塗ってみない?」

伊作の言葉に、頬が引き攣る。伊作の手の内には、彼女の清楚さとはおよそ不釣合いな真っ赤な小瓶が握られていて、そのギャップに眩暈を起こしそうだった。
対峙する伊作は、男共を墜落させてやまない眩しい笑顔を浮かべていて、まるで断られるとは思ってないらしく、いそいそと色とりどりのネイルやら、ストーンやスパンコールの入ったピルケースを並べている。

まったく、わたしが伊作のお願いに弱いのを知っていて、こうしてやってくるんだから性質が悪い。
わたしは、はあ、と重い息を吐いて、伊作に手を差し出すしかなかった。






そうして、伊作の手によってピカピカになった自身の手は、まるで自分の手ではないようだった。

適当に切り揃えただけの爪をきれいに整え、磨き上げられ、綺麗に色の乗った指先。さすがに真っ赤は嫌だと突っぱねて、控えめな薄いピンクにしてもらったけれど、それだってなんの手入れもしていなかった自分の指先にはあまりにも似合わない。
自分のものなのに、そこだけ他人のものを切り取って貼り付けたかのようで、ちっとも自分らしさが感じられなかった。

「やっぱり、映えるね。でも、もうちょっと長かったら、もっとよかったなあ」

部活引退したら伸ばしなよ。と最後の仕上げにかかった伊作が零すのを、右から左へと流す。
正直、スキンケアのあれこれすらめんどくさくて適当になりがちなのに、こんな体の末端を磨き上げるなんて芸当、どう考えたってできるとは思えない。それに。

「………なんか、気持ち悪い」

つやつやと、みずみずしい輝き。自然ではない色合いの爪先。確かに、綺麗だなあとは思う。綺麗だけれど、あまりにも自分らしくなくて、どうにも不快感が拭えない。むずむずと居心地が悪くて、胸の奥がざわざわする。変な感じを一足飛びで飛び越えて、とにかく気持ちが悪かった。
言いようのない濁った心地に、自然と眉根がよってしまう。

「えー、すごい可愛いよ?似合ってるよ?」
「でも、なんか嫌だ。伊作、取ってよ」

綺麗に仕上げたばかりの爪先を伊作に突き出す。早く、と唇を尖らせる。

「えええ、もう?もったいないよ。せっかく綺麗なのにさあ」
「爪だけ、な。こんなの、わたしには似合わん」
「………そんなことないのに。それにおしゃれしてたら、中在家くんだって喜ぶと思うよ?」

その言葉に、似合わない指先を見つめていた視線を勢いよく上げてしまう。
長次が?喜ぶ?頭の上に疑問符が浮かぶ。

「………そういう、ものか?」
「彼女が綺麗になって、喜ばないわけないでしょ」

でも、嫌なら仕方ないね。と、伊作が爪先にコットンを乗せる。じわじわと色が剥ぎ取られる。除光液独特のツンとした香りが鼻先を刺激する。ネイル同様、ちくちくしたこの香りは、やっぱり好きになれそうもない。人工的な輝きから元の自然な色に戻ったのに、それでいいはずなのに、なぜか急激に寂しい気持ちが湧き上がった。


女の子がする当たり前の可愛いことが苦手だった。それを真似る自分だって考えられなかった。自分には似合わない。する必要はない。そう思ってきた。
けれど、今は申し訳程度だけれど、化粧もするし、服装にだって気を使っている。

変わった、と自分でも思う。

これも全部、長次に会ったからだ。長次に会って、長次を好きになって、好かれたくて、可愛いと思って欲しくてたまらなかった。ちょっとでもいい、女の子として彼の目に映りたい。そんな気持ちが、根っこの方にあったんだろう。なのに、その反面、可愛いことをする自分には、酷い違和感を覚えた。

飾り気のない今までの自分と、長次には可愛いと思われたい自分。交わらないアンバランスな想いは、未だに腹の底でくすぶっていて、どう折り合いをつけていいのかわからない。
けれど、やっぱり。

「………喜んで、くれるかな?」
「え?」
「ちょうじ。わたしがネイルしたら、嬉しいって思うか?」

綺麗だとも、ましてや似合うだなんて欠片も思っていないけれど、長次のためだったら、爪先まで飾り立ててもいいかなあと思う。
雑誌に載ってるような二色使いのグラデーションや、ゴテゴテした装飾は逆立ちしても出来そうもないけれど、ちょっと色を置くくらいなら、不器用なわたしにだって出来るかもしれない。長次のためにだったら、したいかもしれない。

「うん!絶対喜んでくれるよ!」

頬を薔薇色に染めてそう頷く伊作に、背中を押されるように、がんばってみようかなあ。とこっそり呟いた。





恋は砂糖でできている






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2011/10/30




title:確かに恋だった



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