どうやって帰宅したのかも覚えていない。
気がついたら自分の家の浴槽に浸かっていた。ぼうっとした頭で、なんとなく天井を見ると淡い光を放っていて、あのときの光景が瞼の裏に映る。

「…夢みてたのかな」

現実味なんて微塵も感じられなかった。お湯の中にタオルを浮かべて風船を作って、そのまま沈めてしまえばぶくぶくと泡が立ちのぼる。沈めた手を見やれば、手首に青黒い鬱血痕があって、それでやっと現実だったんだと意識した。
同意の上だったけれど、多分、これは順番が違う。全部の順番をすっ飛ばしていきなりしてしまった。文字通り、やってしまった。
その行為の意味がわからないほど子供ではないつもりだけれど、まさか自分がそういうことをするなんて思ってもいなくて、思い出しただけで顔から火が出そうだった。
しかも相手は長次だ。

何をしてるんだ、私は。
明日もし会ったら、どんな顔をすればいいんだろう。

いつもなら楽しいはずのバスタイムも酷く憂鬱だった。



お風呂から上がると携帯がチカチカと光っていたけれど、手に取る気分にもならなくてそのまま放っておく。
小平太にとって携帯はただの連絡手段だ。通話と適当にメールができれば良い。特にこだわりもなかったから設定もほぼ買った当初そのままで、女の子らしく可愛いストラップがついてるわけでもないし、伊作のようにデコレーションが施されているわけでもない。実に素っ気無いものだ。
それでも伊作からの連絡は過ぎにわかるように、彼女からの電話やメール着信だけは個別に指定している。今、光っているランプの色はピンクの点滅。伊作からだ。
いつもなら迷わずリダイヤルしている。けれど今日それが出来ないのは自分のした行いのせいだ。
濡れた髪の毛はそのままにしてベットに突っ伏す。

今日のことを知ったら、伊作はなんていうだろうか。
馬鹿な事をしたって軽蔑するだろうか。
軽率な行為に不快感を露わにするか。

マナーモードにしたままの携帯が再びテーブルの上で揺れる。振動でガタガタと音を立てるそれを拾い上げ画面を開く。伊作からだ。
出てしまったら最後だ。嘘が苦手な小平太に伊作が気がつかないわけが無いし、伊作の前で嘘を突き通す自信もない。
けれど、それ以上に、長次とどう接していいのかもわからない。
玄関にあった見慣れない傘は、明らかに男物で、多分長次から借りた物だ。返さなければならない。顔を合わせなければならない。どうしていいのかもわからず、こんな事が相談できるのも、打ち明けられるのも、伊作だけだと思った。

あれこれ悩んでいるうちに静かになってしまった携帯から伊作を呼び出す。電話口から聴こえるのは、普通のコール音ではなくポップなメロディだった。それが五秒もしないうちに切れる。

「…もしもし」
『あー、よかった。何回電話しても出ないからすごい心配したんだよー』
「ごめん、お風呂入ってた…」
『あ、そうだったんだ。何回もごめんね、大雨になっちゃったから心配でさ』

どうやって帰ったの?と聞かれて息が詰まった。

「……えーと、長次に傘借りた」

どうせ学校で傘を返さねばならない。そしたら必然的に伊作にもばれるのだから、ヘタな嘘は吐かずに素直に白状した。
電話の向こうの伊作は嬉しそうに、そっかそっか、と繰り返している。
…ごめん、それだけじゃすまなかったんだ。
心の中で謝って、どうやって事を告げるかをシュミレーションする。いきなり言ったら卒倒しそうで怖い。出来るだけ刺激が少ない言葉を選んで「あのさ、」と切り出した。

「…長次ん家に行ってさ、その場の雰囲気でつい」」
『うん?』
「………、し、してしまって」
『え?何を?まさか、告白?したの?』
「いや、そーじゃなくて。ちょっと順番間違えて」
『……まさか、キスしたとか言わないよね?』

それならどれだけマシだったか。
電話の向こう側にいる伊作に申し訳なくて、声が出なかった。けれど此処まで来たら引き返す事も出来ない。
意を決して声を絞り出した。
落ち着いて聞いて欲しいんだけど、と前置きも忘れない。

「…寝た」

言った、ついに言った。言ってしまった!
口に出してしまえば余計に意識してしまって、体が熱くなる。心なしか下腹部もじくじくと痛む。

『……二人は、付き合ってたの?』

たっぷり時間を置いて返された質問に、違うと短く答える。

告白なんてしてない、付き合ってもいない、友達と呼ぶにも怪しいくらいの関係だ。でもしてしまった。あの部屋で確かに長次とセックスした。
した行為は最低だと自分でもわかっている。こんな事、恋人か夫婦でなきゃしちゃいけない事だって言うのも良くわかっている。しかも初めてだった。なのに、その場の勢いで流されるように事に及んでしまった。
電話の向こうで伊作が泣いているのに気がついて申し訳ない気持ちになる。

「後悔はしてないよ」

ほんの一時の事だったけれど、今までのどんな時よりも長次に近かった。吐いた息がかかるくらいに詰まった距離に喜びさえ感じた。例え最低でも、間違っていたとしても、それでもあの時だけは特別なんだと、嬉しかったのは確かだった。

「…私、長次が好きなんだ」
『………うん』
「だから、泣くなよ」

いつまでも泣き止まない伊作にごめんと何度も繰り返した。




あの雨が嘘のように、翌日は気持ちが良いくらいの晴天だった。
朝錬がなくてよかったと思う。ぼけっとしていて昨日は意識していなかったが、体のあちこちが妙に痛い。理由はわかっている、わかってるけれど。

「筋肉痛の方がマシだ…」

電車に揺られながら呟くと、伊作に自業自得だときついツッコミを入れられた。その目は酷く腫れていて、泣かせてしまった事に心が痛む。
ごめん。私って、本当に馬鹿だよなぁ。
左手には昨日借りた傘がある。これを今日返して、それでお終いだ。もう長次の事は見ない。

男は即物的で、そこに好意が存在しなくても出来るって事くらい知っている。まさか自分がその対象になりえるなんて思ってもいなかったけれど、焚きつけたのは確実に自分で、真面目な長次はきっと後悔しているだろう。責任を取るとか言い出すかもしれない。
いや、もしかしたら、浅ましい小平太を軽蔑したかもしれない。軽い女だと思ったかもしれない。
そう思われてもしょうがない事をしたのだ。



改札を抜けた時だった。
あ、と隣を歩く伊作の声に視線を上げると、そこには傘の持ち主が立っていた。自然と手に力が入る。

「僕、先に行ってるね」

言うが早い。伊作は朝のラッシュでごった返す人波を潜り抜けて出口へと向かってしまった。
長次の方に向き直ると、気まずそうに視線を彷徨わせている。
これは絶対、気にしている。

「傘ありがとう。すっごい助かった」

何も知らない無知な子供のような笑顔を貼り付けて傘を押し付ける。
変な空気になったら駄目だ。無かった事にするんだ。

「…昨日は、すまない。その、きちんとしようと思って…」

小平太の思いも空しく、長次の口から出たのは聞きたくなかった言葉そのままだった。
謝ってほしくなんて無かった。責任なんて感じてほしくなかった。そんなのいらない。同情はもっと要らない。
昨日の事を気にして付き合うとか付き合わないとか、そんな話にしたかったわけじゃない。流れでしてしまった事実はあっても、そんな事を望んで打算的にしたんじゃない。

「気にすんな!私も忘れるから、長次もさっさと忘れろ」

じゃあ、と伊作の後を追う為の一歩を踏み出した時、長次の手に掴まった。
右手首を強く掴まれて、びくともしない。

「…忘れられない」

賑やかな構内でその言葉だけが嘘みたいにすっと耳に届く。怖くて目は見れなかった。
忘れられないって、どういうことだ。
自分の気持ちだって良くわからないのに、長次の気持ちはもっとわからない。どうしていいのかわからずに、落とした目線の先には自分の爪先があるだけだった。

朝の駅は色んな人がいる。駅員はもちろん、通勤通学の会社員や学生、キヨスクのおばちゃん。色んな人の目がある。

「こんな場所で、そんな話したくない」

搾り出したこの言葉は、長次の為か自分の為だったのか。
それすらわからなかった。



遠くでチャイムが鳴るのが聴こえる。
時刻は九時を回っていた。伊作にはメールをしておいたので、きっとうまく言っといてくれるだろうと遠くの空を仰ぎ見る。

あれから長次に手を引かれて、駅の近くの公園までやってきた。その間も手首は握られたままで、何も言えず大人しく着いて行くしかなかった。
朝の公園は人も疎らだ。飲み物を買ってくると言った長次は離れた場所にある自販機の前にいる。遊具から離れた場所のベンチに腰をかけて息を吐く。
こんなつもりじゃなかった。
きちんとしたいと言ったのは、長次の誠意からだと思う。そんな風に思わせるつもりなんてなかった。軽はずみな行動を取って、長次を縛り付けてるみたいで、苦しくて苦しくて堪らない。

「…好きな方を取れ」

長次に差し出された缶は二つ、ミルクティーと何故だか汁粉だった。

「こっち」

汁粉の方を長次の手から抜く。けれど、それをすぐ飲む気にはならなくて、悴む指に当てて熱を貰った。晴れていても北風は冷たくて、無機質な缶の人工的な温かさが身に染みた。

「責任なんて感じなくていいんだぞ」
「…そうじゃない」
「だってそうだろ。一回したからってどうって事ないよ」
「そんな風に言うなっ」

らしからぬ怒声にビックリして、手から滑り落ちた缶が地面を跳ねた。
ベンチに腰を落ち着けた長次は両手で頭を抱えて息を吐く。

「……好きなんだ、ずっと、見てた」
「え?」
「だから、ちゃんと、付き合って欲しい」

責任とか後ろめたさとか、そういうんじゃない。本当に好きなんだ。

きっぱりと言い切った長次の言葉に、じわりと涙が浮かんで景色が歪む。
長次も同じ気持ちだった。嬉しいはずの事実なのに、何故か素直には喜べなかった。
こんな風にしたかったんじゃない。こんな風に始まってもきっといい方向には向かない。伊作だって喜ばない。
喉に何かが突っかかったようにうまく声が出なかった。

「私、誰にでもあんなことしないないぞ」
「…ああ」
「初めてだったし」
「……そう、か」
「長次ならいいって、本当に思ったんだ」

長次との接点は薄い。
だから少しでも見ていられる時間が増えるなら、くっつけるならと、そう思って言ってしまった。そこから何をされるとかするとか、そんな事は全く考えていなかった。問題の大きさも考えてなかった。
徐に長次の手を取って握る。寒風に晒されたそれは酷く冷たくなっていた。体を捻って長次の方に向き直ると揺れ動く瞳を見据えた。
長次はちゃんと言ってくれた。だから自分もしっかり言わないといけない。

「私も長次が好きだよ」
「…なら」
「でも、これで付き合うとかは嫌だ」

これだって十分なきっかけだって事はわかってる。そう言うのもありなんだと思う。けれど、惰性で踏み出すのはすごく嫌だった。
横にいる長次は困惑している。そりゃそうだ。お互い好きだと言ってるのに、付き合わないと突っぱねてるんだから、可笑しく思わない方が変だ。
それでも。

「だから、これは提案なんだけど」
「…なんだ?」
「14日にチョコ渡すよ」

だから、気持ちが変わらなかったら受け取って。




恋に罪はなかった






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2010/9/17




title:確かに恋だった



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