伊作は普段、学校からまっすぐに駅に向かい帰宅する。
けれど今日は違った。
学校を出るとこの近辺で一番大きい書店を目指す。目的はバレンタイン用のレシピ本だ。家にもいくつかお菓子のレシピはあるが、それでは新鮮味も面白味にかけるような気がして新しいものをと思い立ったのはお昼の時だった。


学校まで電車で通学している伊作の地元は少し田舎の住宅街だった。目立った商業施設もなければ、ファーストフードのお店だってない。申し訳程度にポツポツとコンビニが数軒あるくらいだった。
本は欲しいが本屋がない地元ではどうしようもない。でも週末まで待つのもなんだか落ち着かない。一度思い立つとすぐに行動に移したがるのは伊作の悪い癖だった。どうしようかと考えあぐねていると。

「文次郎はこの辺地元だったと思うけど」

お握りを頬張った小平太がいい笑顔を浮かべていた。レシピ本といったのにあまり意味をわかっていないらしい小平太に溜息が出る。
君のために買うんだよ、小平太。
伊作の想いが伝わっていないらしい小平太は、おーいと大きく手を振って潮江君を呼び寄せていた。クラスの男子と談笑していた潮江君も小平太の大声に気がついたらしく、此方へと向かってくる。
お昼途中だったのに。
正直、食事姿を男子に見られることには抵抗がある。小学校の頃は班毎に机をくっつけて食べていたし、別になんてことはないはずなのに、パン頬張る姿を見られるのは遠慮したい。食べかけのパンをしまうと小平太が首を傾げていた。

「小平太、何の用だ」
「この辺にでっかい本屋ない?」
「本なら図書室があんだろ、そこで借りろ」
「料理本はないだろ?」

図星だったのか潮江君が言葉に詰まっている。

「料理って、小平太がすんのか?」
「違う違う、伊作が欲しいんだってさ。ほら、バレンタイン近いじゃん」

小平太の爆弾発言にクラスがざわついた。近くに居た女子が数名、机を取り囲んできて、ぎょっとした。突然の事に言葉が出ない。
え、善法寺さん誰かにあげるの?手作りって事は本命?誰にあげるの?
矢継ぎ早に飛び交うクラスメイトの質問攻めにどう答えていいのかわからなくなる。けれど、小平太のためなんてことも言えずにただただ顔を赤らめて俯いているしかなかった。遠くの方で男子もこちらに視線を向けてきているのが見えて、ますます居た堪れない気持ちになる。
早く騒ぎが収まって欲しい。
返事をすることも出来ずにいると、誰にでも秘密にしたいことくらいあるだろ、と潮江君が助け舟を出してくれた。散った散ったと集まってきた女子達を席に戻るように促している。

「あ、ありがとう」
「おう、それで本屋だったな。善法寺はチャリ通か?」
「ううん、電車なんだ」
「なら、あそこがいいか。駅にも近い」

紙あるか?と言われて慌てて鞄からノートを引っ張り出す。開いたノートから一ページだけ破って可愛い色のペンと一緒に差し出すと、潮江君は慣れた手つきでサラサラと地図を描き、はい、と差し出してきた。

「口だけで説明しても、わからんだろう」

描かれた地図の隅には、何故か十一桁の番号が書いてあって首を傾げる。

「携帯の番号に見える」
「見えるんじゃなくて、そうなんだ」

俺の、と付け加えられた。
へー、これが潮江君の携帯番号か。…じゃなくて!

「なんで?」
「なにかあったら困るだろうが。連れてってやりたいが生憎部活なもんでな」

正面の小平太まで、私も部活だから、と笑う。まるで初めてのお使いと言わんばかりの二人の態度には、さすがにカチンと来た。

「僕は方向音痴じゃないってば」
「そうじゃねぇって。その辺に男子校あっからさ」

絡まれたらすぐ電話しろよ、とだけ言って潮江君は元の場所に帰っていった。
案外優しいんだ、と思うと同時に、これだから携帯電話の彼女に色々おちょくられるんだろうなぁと、まだ実物を見たことのない色白の美少女を思い出す。こうやって女友達にも優しさを振りまいて、顔に似合わず優しいのは好感が持てるけど、彼女の立場だったらさぞかし気分が悪い事だろう。溜息が零れた。




そんなやり取りをしたのが数時間前。夕方の四時。帰宅ラッシュで賑わう駅を素通りして地図を頼りに道を進む。毎日駅から学校までの決まった道しか通っていなかったのでその道を歩くのは初めてだった。
すれ違う人並みは制服男子比率が高い。男子校の近くと言っていたけれど、彼らがそうなんだろうか。身に纏う制服は確かに伊作の学校のものとは違っていたけれど、男子の制服なんて詳しくない伊作には全くわからなかった。
意外にも丁寧に描かれた地図はとてもわかりやすくて、迷うことなく目的地へと到着した。

辿り着いた先の書店はとても大きかった。二階建てになっていて建坪も広い。
案内板で配置を確認しても目的の本が置かれている棚を目指した。バレンタイン前と言うこともあって美味しそうなお菓子の写真を表紙に飾ったカラフルな本がたくさん並んでいる。手にとってパラパラと捲るとそこには美味しそうなケーキやらタルトの写真とレシピが並んでいて心が躍った。これはすっごい作り甲斐がありそう。食い入るようにレシピを物色すること数分、はたと我に返った。
小平太のための本だった!
料理もした事がないと言っていた小平太にこれは無理だろうと、後ろ髪引かれつつ本を戻す。簡単に出来そうなやつをと、あれこれ本を手に取っては戻すの作業を繰り返して、結局「はじめてでもおいしく作れるお菓子」と銘打った本を抱えてレジへと向かった。



本の中身はレンジでも簡単に出来るものもあった。
これでばっちりだなぁとスキップしたい気持ちを抑えて自動ドアを潜り勢い良く歩道に出ると、「あぶねぇ!」と大声が耳を劈く。声のした方を振り向くと目前に銀色の自転車が見えて、咄嗟に頭を庇って後ろに身を退いた。それとほぼ同時に、ガッシャンと派手な音を立てて自転車も伊作も地面へと叩きつけられた。幸いスピードも出ていなかったみたいだし、伊作自身も本能的に避けたので正面衝突はしていない。けれど変な風に転けたようで、右足首が鈍く痛んだ。

「…いたっ」

タイツに覆われた足は直接幹部を見ることなんて出来ないが、転んだ拍子にアスファルトに引っ掛けたらしくすっかり伝線してしまっていて所々肌色が見えている。恥ずかしいことこの上ない。

「おい」

頭上から降ってきた聴きなれない声に顔を上げるとそこには見たこともない人が立っていた。しかも男、男だ。見たところ、同い年かちょっと上くらいに見える。
全体的に整った顔をしているこの人はきっとカッコいいに分類される人種なんだろうけど、釣りあがった目とぶっきらぼうな口調、なにより知らない同世代の男というのが伊作の気持ちを萎縮させた。
単独で側溝に足を突っ込んでしまったり、電柱にぶつかったり、駐輪場の自転車をドミノ倒しにしたり、乗った電車が急行で駅に止まらなかったりなんて事は日常茶飯事だったが、こうやって人を巻き込んで不運に遭遇することも稀にあった。その相手が女性だったらまだ運がいい方だと自分に言い聞かせられるが、今日の相手は男だ。
怖い。怖い。怖い。
男性に対する恐怖心もこのところ改善の方向を見ていたが、それはあくまでも見知った級友との話であって、見ず知らずの相手は別だ。
血の気が引いて手が震える。恐怖に耐え切れず、思わず顔を伏せた。

「え、なに?気分悪いとか?」
「…ち、ちが……っ」
「じゃあ、変なとこ打ったか?」

大丈夫か?と知らない手が伸びてきて、それがすごく恐ろしいものに思えて大袈裟なくらい肩が揺れた。
この人は全然悪くないのに。

「…もしかして、俺が恐いのか?」

申し訳ないと思いつつ、首を急いで縦に振る。捻った足は痛いし、目の前の男は恐い。どうしていいのか自分にもわからなくて只管に頷いた。

「ちょっと待ってろ」

言葉と共に男の気配が消えてそっと視線を彷徨わすと、銀色の自転車を歩道の隅に置く姿が目に映った。
あの時、危ないと言ったのは彼だったのかと気がつき、それなら向こうも怪我しているんじゃないかと不安に駆られる。青ざめた表情に気がついたのか男は、俺は全然ヘーキと口角を上げて笑った。笑顔の彼は幼さを残していて少しホッとした。
そして再び近づいてくる。六十センチくらい離れたところで歩みを止めた。

「これ以上近づかねぇから安心しろ」

その言葉に心底安堵する。宣言通り近づく気は更々ないらしい彼は視線を合わせるためにその場にしゃがみこんだ。
見た目に寄らず、優しい人なんだと思った。今までの経験上、こういう場合の男は必要以上に近づいてきて馴れ馴れしく手を取ったりする。伊作はそれが嫌で堪らなかったが、彼はそんなつもりはないらしい。

「ぶつかって悪かったな」
「…いえ、飛び出したのは僕の方ですから」
「んな事ねーよ。それより怪我ねぇ?」
「だ、大丈夫です」

嘘だった。
痛みの増してきた足を庇いつつ立ち上がると、先程より酷くなっているみたいで酷く痛んだ。ジンジンとしていてちょっと熱を持っているみたい。これはやばいかも。
思わず顔を顰めると、やっぱり平気じゃねぇみたいだな、と男が呟いた。

「そっち行ってもいいなら手を貸すけど」
「い、いいです!」
「だって平気そうに見えないぞ。右足、全然体重乗ってないだろ」

的確な指摘にぐうの音も出ない。
ちょっとでも体重を乗せたら倒れてしまいそうなくらい痛いのは事実だった。

「とりあえず鞄拾っていいか?」
「あ」

そう言われて初めて自分の手から離れた鞄を思い出した。持ち主から放って置かれたままの鞄は歩道に散乱している。中身も半分くらい出ていて実に悲惨な状況だ。
男は返事を待たずに鞄と書店の包みを拾い上げると、徐に自転車の籠へとそれらを突っ込んだ。

「送ってやるから乗れよ」
「…いいです、うち遠いし」
「そんなんじゃ歩けねぇし、遠いならなおさらだろ」

男の言うことがいちいち正論過ぎて全くもって反論の言葉が出てこない。
確かに此処から歩いて駅に向かい、電車に乗って、更に徒歩で帰宅するのは無理かもしれない。けれど知らない男の自転車に乗ってしまうのも、なんだか気が重かった。

「名前もしらねーから恐いんだよな」

徐にブレザーに手を突っ込むと黒い生徒手帳を開いて見せてくれた。そこには四角い写真と名前とクラスが表記されている。写真は確かに彼のもので、学年が同じ事を知った。書かれていた名前は。

「しょくまん、さん?」
「そう読んじゃうよな」

頭を掻いて苦笑いを浮かべる彼は、けまって読むんだよ、と教えてくれた。
けまとめさぶろう、けまとめさぶろう。
彼の名前を脳内で反芻する。変わった苗字に古風な名前だなぁ。

「あんたは?」
「え、あ、えっと、善法寺です、善法寺伊作」

生徒手帳を見せるのは気が引けて口頭で説明すると、食満さんはそっかと頷いた。

「善法寺さんね、そっちまで歩ける?」

律儀と言うか優しいと言うか、恐がらせないようにと取ってくれた行動の一つ一つが実に紳士的で、伊作の警戒心を確実に取り除いていった。
自転車を指されてそこくらいまではと片足でピョンピョン跳ねて移動。小動物っぽいと食満さんが笑うのが聞こえて何故か心臓が跳ねた。
何とか辿り着いた先で、此処に乗ってとサドルの後ろについてるに荷台を指され、大人しく腰を下ろした。

「俺に掴まんなくていーから、落ちないようにどっか握ってて」
「うん」

けれど何処を掴んでいいのかわからなくて、控えめに大きな背中の服の裾を掴む。
吃驚したのか振り返った食満さんは困ったような笑いを浮かべていて、不謹慎ながらかわいいなぁと思ってしまった。





恋という名の種を拾いました






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2010/9/11



二人乗りは違反です。



title:確かに恋だった



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