夢か現実か、判断のおぼつかないまま長次が見上げた天井は、自分の部屋と全く違うものだった。白い壁、大きめに取られた窓は淡いブルーのカーテンにぴっちりと覆われていて、それが時折揺れている。
ここはどこなのか。
至極当たり前な疑問が頭を掠めるのに、それを阻止するかのようにこめかみに痛みが走った。絶えず鈍器で叩かれているかのようで、頭が重い。投げ出した四肢はだるさを訴え動かすのも億劫だった。胃の辺りから酸っぱいものがせりあがるような感覚を覚えて、咄嗟に口元を押さえた。吐きそうで吐けないこの感覚に覚えがあった。








たしか昨夜は、同級生六人で鍋を囲んだはずだった。

同級生と言っても、実際の関係は幼馴染に近いものだったと思う。田舎の寂れた地域で育ったから中学までは完全に持ち上がりだったし、保育園も片手で数えるほどしか存在してないから、下手をしたら中学までの九年間、全く同じ進路を歩んだ奴だっているくらいだった。幼い頃からの知り合いを幼馴染と定義するなら、それこそ同級生全員がそれに当てはまってしまう、そのくらい閉鎖的な田舎で長次たちは育ってきた。その中でも昨日会った五人とは、特別仲がよかったと思う。小学生だった頃は、毎日泥だらけになりながら夕暮れまで遊んだものだった。

進路が分かれたのは十五の時だった。田舎暮らしの学生は地元高校に進むのが半分、残りの半分は片道一時間かけて町の高校まで通うのが当たり前で、長次は後者だった。
高校を卒業してすでに数年。それでも大学で遊んでいた頃は、まだ頻繁に会っていたほうだと思う。ただしそれも三年までの話で、就職活動が始まってからはそれぞれが自分の事で精一杯だった。就職氷河期といわれ、内定一つ取るのにも死に物狂いでもがいたあの頃は毎日が針のむしろで、専門へ行った伊作だけが就職の心配よりも、日々の実習の忙しさに悲鳴をあげていたと思う。会うことはなくとも、人づてにそんな連絡はよく来ていた。
けれど、社会に出てからは、そんな連絡も少なくなっていった。いつの間にか疎遠になった友人からは年に一度か二度、「元気か?」と簡単なメールが送られてくるくらいで、会社用とは別に持っているプライベート用の携帯は沈黙を守ってばかりだった。

それが久々に音を立てたのは、先週の日曜の事だ。
『来週の土曜、六人で飲まないか?』
連絡を寄越してきたのは仙蔵で、面倒だからという理由でかかってきた電話に自然と心が躍った。久しぶりに聞いた仙蔵の声は学生時代となんら変わりなく、そんなことにひどく安心したなんて馬鹿なんじゃないかと思う。内容だって友人あてのありきたりな誘い文句だったし、それに誘われたのは自分だけじゃない。そんなことは百も承知だったけれど、それだけでも十分なくらい心の中が幸せで満たされていった。本当に馬鹿だと思う。けれど自分ではどうしようもないくらい、今でも仙蔵が好きなんだと、たった一本の電話で思い知らされた。

仙蔵とは高校まで同じで、当時「高嶺の花」と遠巻きに憧れる男は両手でも足りないくらいだった。それは同級生のみならず、上級生や下級生にまで及んでいて、幼い頃から当たり前のように男友達というポジションを陣取っていた長次は軽い優越感さえ感じた。同時に怖くもなった。
仙蔵に淡い恋心を抱くようになったのはいつからだったか。明確な線引きも、きっかけを思い出すことも出来ないくらい前だったと思う。気がついたら好きになっていた。それをはっきり自覚して受け止めたのは受験真っ盛りの十五の頃だったけれど、それを口にしたことは一度もない。もし気持ちを伝えて、友達にすら戻れなくなったらと最悪の事態ばかり考えて、とてもじゃないけれど行動に移す事なんて出来なかった。少しの可能性にかけて進展を望むよりも、友達のままでも現状維持するほうを長次は選んだのだ。そして社会に巣立った今でも、二人の関係は変わっていない。すでに十年。それでも長次の心の片隅には仙蔵がいた。




そうして昨夜は数年ぶりに顔をつき合わせた同級生と、年取ったよなと笑いあった。この面子で集まったのは大学四年の頃が最後で、年数にしたらたった三年会わなかっただけなのに、学生と社会人では立場が違うからか、まとう空気はそれぞれに大人びていてすっかり別人だった。けれど、砕けた表情はあの頃と変わりなくて、学生時代に戻ったような気分にずいぶんと酔った。
約一名が年齢不詳だった学生時代と変わらない出で立ちで、「やっと顔と年齢が追いついてきたんじゃね?」と小平太がからかえば、本気になって怒るものだからすっかり笑い種になってた。あの気安い空気はやっぱり居心地がいい。

安い居酒屋の鍋を突き、酒を胃に流し込んだ。互いに酒の飲める歳になってたし、田舎暮らしの両親でも知っているような商社の秘書がすっかり板についた仙蔵がばかみたいに酒を煽るものだから、その場にいた全員がそれに乗せられてハイペースでグラスをあけていった。それは長次も例外じゃない。いち早く潰れたのは酒に強くない伊作で、それを介抱してたのは留三郎だった。ぐったりした伊作に自分の上着をかけて膝まで貸していた留三郎が伊作にご執心なのは仲間内では周知の事実で、「このままお持ち帰りするのか?」と揶揄する仙蔵に、「もう一緒に住んでる」と切り返された時にはその場にいた全員が固まった。同棲生活は既に二年、親公認だと笑った留三郎は幸せそうだった。

「わたしは、きいてないぞ」

寝耳に水だったことに、仙蔵のご機嫌は見事なくらい斜めになっている。聞いてないのはこちらも同じで、留三郎が片想いをし続けていたのは知っていたけれど、それが実ったなんて話を聞いたのは初めてだった。

「わりぃ。だって就職したてで忙しかったし」

連絡する暇なんてなかったんだよ。隠すつもりだってなかった。と留三郎は眉を下げている。仙蔵はやけくそに芋焼酎を煽っていて、そんな無茶な飲み方をするなと窘めているのは彼女の横にいる文次郎だった。その姿にちくちくと胸が痛む。

「…だいたい伊作は年上好みだったはずだ」

ぶつぶつ言いながらも、仙蔵のグラスはすっかり空だった。ザルなのは知っているけれど、それにしたって無茶な飲み方だろう。

伊作の親父趣味は仲間内では有名で、可愛い顔をしているのに、同年代の男にだって十分もてるのに、もったいないとよく噂されていた。伊作が相手にしてきた歴代の男は長次が知る限り一回りくらい歳の差がありそうな大人の男ばかりだった。下手をしたら父親と同じくらいの年齢かと思うような男と付き合ってた事だってあったくらいで、(たしかあの時は不倫だった)見かねて「もう少し男を選べ」と諭したことも一度や二度ではない。そのたびに伊作は、「子供に興味はないんだ」と自分の事を棚に上げて、あっけらかんと笑った。お前が相手にしてるのは大人じゃなくて、親父だろうが。最後の方は呆れてそんな風に返したけれど、そのときの留三郎の悲痛な表情は忘れられない。告白以前に、恋愛対象からすっかり除外されたんだから。
なのになぜ今更のように、留三郎に落ち着いたんだろうか。
そんな疑問はあの小平太でさえ持ってるようで、しきりに、なんでなんで?と留三郎の腕を引いている。

「俺らの事はどうでもいいだろ。今日の主役は別なんだから」

そう言って、留三郎が視線を流した先にいたのは、文次郎だった。
盆でも年末でも、ましてや誰かの誕生日でもない、普通の土曜日にわざわざ人を集めたのには意味があったらしい。それぞれ忙しいんだから、それ相応の用事でもなければ、時間と労力を裂いて集めるなんて面倒くさい真似はしないだろう。けれど、長次に連絡を寄越したのは仙蔵だった。文次郎じゃない。
文次郎が言いにくそうに視線を泳がせている。横にいた仙蔵が頬を赤らめて、早く言え、と小突いていた。その赤みが明らかに酒のせいではないことがわかって、脈がはやくなる。嫌な予感が、脳裏を過ぎる。

「結婚するんだ、俺たち」

俺たち、の部分で、文次郎と仙蔵の視線が絡み合った。それだけで十分だった。
後頭部を鈍器で殴られたような衝撃に、倒れるかと錯覚するほどで、からからになった喉からはうまく声が出そうもない。小平太も留三郎も、おめでとう、とお祝いの言葉を贈っている。自分も言わなければ。「おめでとう、よかったな。幸せになれよ」と。祝福するべきだ。わかってる、そんな事わかっているのに、それは声になりそうもなかった。

仙蔵はともかく、文次郎が密かに仙蔵を想っていたことは、同じく仙蔵に焦がれていた長次は気づいていた。そして長次と同じように友達でいることを望んだことも知っていた。少なくとも、大学三年までは確実に友達だった。同じ立ち位置のはずだった。なのに、どうして。

固まったまま一ミリも動けなかった。瞬きできてたかどうかも曖昧で、そんな様子を不審に思ったのか、はたまた心配したのか、小平太が「酔ったのか?」と顔を覗き込んできて、そのときようやく我に返った。

「きもちわるいか?」

吐きそう?と背中をする小平太の問いに、首を振って否定を示す。ついさっきまでアルコールに呑まれていた脳は、冷や水を浴びせられたようにすっかり醒めていた。寂しそうに眉尻を下げる仙蔵の薬指に銀色に光るものを捕らえて、ますます居場所がなくなった。
付き合ってるでも、同棲でもなく、結婚。書面で交わす契約は絶対で、突然それを突きつけられて、苦しい痛いなんてちっぽけな言葉じゃ言いようがない深い闇が全身を蝕んだ。気持ちを伝える気なんてなかった。保身ばかりで進展を望まなければ、いつかはぶち当たる問題なのはわかっていた。それでも着実にキャリアを重ねる仙蔵に、ずっと遠い先の事なんだと勝手に思い込んでいた。なんて浅はかな考えだったんだろう。

「長次は、祝ってくれないのか?」
「…え、あ、いや、……びっくりして」
「急だったからな」

びっくりさせてすまない、と仙蔵は困ったように顔を歪めたけれど、仙蔵にも、もちろん文次郎にも非はない。これは長次の心の問題だった。
心にもない「おめでとう」をなんとか搾り出して、必死に取り繕う様は実に滑稽だと思う。けど、それ以外に言えることはなかった。

テーブルの向かいで留三郎が「日取り決まってんの?」と文次郎を突きながら、酒を楽しんでいる。とてもじゃないが、留三郎のように根掘り葉掘り聞く気にもなれなくて、ばかみたいに酒を飲み込んだ。度のきつい酒を飲んでも、酔いとは真逆に頭は冷える一方で、それでも酒に溺れたくてぐいぐい飲み干す長次に、小平太が「どっちが強いか競争しよう!」と飲み比べを挑んできた。ザルを越えて枠な小平太に勝てる奴なんかいないと思ったけれど、いっそ記憶をなくすくらい飲まれてしまいたくて、傍から見たら無謀とも思える挑戦を受けた。







そうだ。それで前後不覚になるくらいに深酒をしたんだった。
ようやく昨夜の出来事を思い出して、同時に思い出したくない部分も思い出して、気分は急下降する折れ線グラフのようにどんどんと下がっていった。

小平太との飲み比べで、ビールジョッキで三杯と白ワイン、あと水割りを五杯くらい飲んだ気がする。最後の方に飲んだ熱燗は本数すら覚えていない。一体どのくらい飲んだのか。明らかに許容量を越えるアルコールに、この惨劇は当然なんだろうと深い溜息を落とす。記憶してる限りで泥酔の域に達していたのは伊作だけだった。飲み潰れてどうしようもなくなった長次を誰かが連れて帰ったんだろう。
ずきずき痛む頭に、これ以上考えるのは毒だと、柔いタオルケットをたぐり寄せ、寝返りをうつ。途端に視界が肌色でいっぱいになり、文字通り固まってしまった。


なんだこれは。どういうことだ。
うっすら朝日のさす視界に、背骨と形のよい肩甲骨が見える。日に焼けていない肌は真白く、相反するような黒髪とのコントラストに心臓が跳ねた。明らかに小さい肩に、背中しか見えない隣の人間が女だと知った。
昨夜の記憶は酒を交わしたところまでしかない。その先はぷっつり途絶えていて、どうやって店を出たのか、なぜ女と同じ寝床にいるのか、さっぱりわからなかった。

んん、と身じろぎして丸まった背中に、おもわず引き寄せたタオルケットを被せる。譲った分だけ露になった自分の体も、素っ裸で「うわっ」と情けない声があがった。
服!服どこいった!慌てて視線をめぐらす。床に転々と放り出された服はすっかりぐちゃぐちゃで、そのうえ自分のものではない、明らかに女物の下着が目にはいって泣きたくなった。てっきり文次郎か留三郎のところなんだと思っていた数分前にぜひとも戻りたい。二日酔いの気分の悪さなどどこ吹く風。もうそれどころじゃなかった。


いい大人の男女が裸で一つの布団にいて、その意味がわからないほど馬鹿でも鈍感でもない。全く覚えていないけれど、状況が全てを物語っていて、あまりの居心地の悪さに背を向ける事で折れそうな心をなんとか保った。
なんとなく付き合って、なんとなくそういうことになったことは、数は少なくともそれなりに経験がある。けれど、こんな事態は初めてで、どうしていいのかわからない。

背中側から間延びした声が上がった。起きたんだ、と思ったけれど、怖くて振り返ることなんて出来ない。いい大人がそんな事を考える何で愚の骨頂だと、傍観者だったら確実に笑っていると思う。けれど残念な事に、いま現在の長次の立場は、傍観者ではなく当事者だ。嫌な汗がじんわりてのひらに浮かぶ。振り返って非礼を詫びるべきか、そもそも記憶がないのだから土下座でもして平謝るべきなのか。考えあぐねてすっかり身動きが取れなくなってしまった。

「…ちょーじ、まだ寝てんの?」

自分のものより小さい手が二の腕あたりを掠めて、心臓が縮みあがるかと思った。手が触れたことよりも、綴られた声がよく見知った相手にそっくりで、そのことに体が奥から冷えていく。まさか、そんな。

「ちょうじ、おはよう」

ゆっくりと振り返った先。
そこにいたのは、昨夜飲み比べをした友人。小平太だった。







君がくれた白い嘘








****************
2010/11/14




title:確かに恋だった



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