デスクのすみに追いやられた簡素な卓上カレンダーを見ると、まだ火曜だった。小平太との約束は土曜日だから、まだ四日もある。

一週間が長いと感じるのは、初めてだった。
どちらかというと仕事ばかりにおわれる毎日は疾風のようで、あっという間に週末なんてことはザラだったのに、なぜか今週は酷く焦れったく感じた。いつもと違う感覚は居心地が悪く、どうにも落ち着かない。妙にそわそわしているのを、どう勘違いしたのか。すぐ隣のデスクにいる後輩に「僕、なにか失敗しました?」と困ったような顔をされ、面食らってしまった。できるだけ落ち着きをはらって、「ちがう」と返したけれど、お出掛け前の子供みたいに浮ついてたかと思うと、恥ずかしくてたまらなかった。

なんだかんだで、週末の旅行を楽しみにしている自分に気がつく。あの夜、うきうきとスケジュール帳に予定を書き込む小平太の姿がぼんやりと浮かんで、人の事は言えないなと息を吐いた。

そういえば、小平太と遠出するのは初めてだった。週末は一緒に過ごしているけれど、出掛けるにしても近所のスーパーや、よくても近場の映画館くらいだった気がする。過去に付き合ってきた歴代の彼女たちには、行きたいと強請られることもあったし、海に行ったり、テーマパークに行ってみたり、それなりの旅行をしてきた。けれど、小平太と女の子が好きそうなデートコースがいまいち結びつかなくて、男友達と過ごすようなだらだらした週末を繰り返してばかりだった。どちらかといえばインドアで、出来る事なら家で静かに過ごしたかったというのもあったけれど、元より甘い何かがあって始まった関係でないだけに、彼氏面してあちこちつれて歩くのも気が引けたというのも少しはある。

直接言われたわけではないけれど、小平太との関係は期間限定のものだと思っている。責任とれ、付き合え。そういわれたときには、少しだけ、結婚しろって意味が含まれているかと勘違いもしたけれど、小平太がそれを望む素振りも見せなければ、恋人らしい何かを望むこともなかった。そもそも、男扱いすらされていない。そりゃそうだ。二十五年間、大事に守ってきたものをたった一夜で奪った相手なんだ。憎まれる事はあっても、好意なんてもたれることはない。あるはずない。
形ばかりのお付き合いは、交際期間があった事実の裏づけだけで、小平太はその中身なんて欲しがっていなかった。小平太が欲しいのは、「ちゃんとお付き合いをして、それで処女を捧げました。」という、もっともらしい事実だけで、きっとそれなりの体裁が整ったら、きっと元の幼馴染の関係に戻るんだろう。
そう思ったら、とてもじゃないけれど、甘い週末を過ごそうという気にはなれなかった。





「お先に失礼します」と、丁寧に頭を下げる後輩を見送った直後だった。デスクに置いた仕事用ではない携帯が、チカチカと光っている事に気がついた。たいして鳴りもしないそれはずっとサイレントにしたままで、音を奏でる事もなければ、振動することもなかった。唯一はいる連絡は金曜の夜で、相手は決まって小平太だった。
誰だろうと疑問を描きつつ、画面を開く。ディスプレイには、新着メール、一件。送り主は小平太だった。内容はきわめてシンプルで、「夜、いっていいか?」とだけ綴られている。珍しい事もあるな、と思った。小平太からメールが来るのも週に一回なら、会うのだって週末だけだった。週末に会うのは約束事みたいになっていたし、なにより、小平太から「会いたい」と言ってきたのは初めてのことだった。

心の奥がもぞもぞして、むず痒い。でも、少しだけ求められているようで、口許が緩んでしまう。頬が熱を持ったように熱くて、慕ってくれる後輩が帰った後でよかったと深く息を吐いた。

少し迷って、「残業あるから、遅くていいなら。」と送った。数分後に帰ってきたメールは、「じゃあ、その辺で待ってる。」という短いメールで、ご丁寧に何個も改行を重ねた下に、「残業お疲れ」と添えられていた。その一言に、あったかい何かが湧き出てきて、嬉しいような恥ずかしいような気持ちになる。どうでもいいような扱いをし続けてきた携帯を、びっくりするくらい丁寧に鞄にしまうと、パソコンの電源を落とした。





結局、残業はしなかった。かわりにスペアキーを作りに行く。
小平太と会うのはいつだって週末だけで、今まで特に必要としなかったから渡してなかったけれど、やっぱり合鍵があったほうがいい。少し古めの賃貸マンションは、電子キーでもなければ、カードキーでもない古臭いものだったけれど、こういう時は便利だなと思った。


秋から冬へ。変わり始めた季節に、風は刺すような痛みを含んでいる。さすがに外で待ってるとは思わないけれど、それでも喫茶店やファミレスで無駄に時間を潰すよりも、家にいて欲しいと思った。帰ったとき、家の扉を開けたとき、その先にあるのが真っ暗で冷たい部屋じゃなくて、あたたかい光と、笑った小平太が「おかえり」と言ってくれたらどんなにいいだろうか。ありえない考えが頭を過ぎって、追い払うように頭を振った。
この付き合いは期間限定だ。馬鹿な事は考えるな。
それでも、足取りは軽かった。









『もうちょっとで、家に着く』
あと五分かそこらでアパートに着く距離で送ったメールに、返信はなかった。少し寂しい気持ちを抱えて、右手の携帯を握り締める。もしかしたら帰ったのかもと、後ろ向きな事を思う。まだ週の中頃で、当然明日は仕事がある。時刻は八時。遅いわけじゃないけど、早いわけでもない。翌日の事を思えば、今日はなしになったって仕方ないと、携帯をポケットに突っ込んだところで、歩みが止まった。止まってしまった。

「…ちょーじ」

マンションの入り口。薄暗い街頭の下に、小平太が立っていたからだ。呼吸するたびに、吐き出される息は白い。胸の前で重なった手が、異常なくらい白くなっていた。本格的な冬が来てないこの季節、コートはもちろん、マフラーさえも巻いてない小平太は、見ているこっちが寒くなるくらい薄着だった。
一体、いつから待ってたんだ。もしかして、ずっと待ってたのか。こんな寒い場所で、ずっと。

聞きたいことも言いたいこともあったけれど、それよりも優先すべきことがあった。

「早く、入ろう」

見た目以上に冷たくなった彼女の肩を抱いて、マンションの階段を上がった。









薄い扉越しに聞こえるシャワーの音がやけに大きく感じた。

すっかり冷え切った小平太を半ば強引にバスルームに連れて行き、体をあっためるようにと言ったのが十分前。そうして自分はスーツを脱いで、ネクタイを緩めた。楽な格好になれば、他にすることなんてなにもなかった。

別に初めてのことじゃない。小平太がこの部屋に泊まって、当然のようにシャワーを使ったことなんて、もう何度も経験していることだった。けれど、それはいつだって、長次が家事に勤しんでる間のことで。用事に気を取られてる間に、「いい湯だったー」とぶかぶかのジャージ姿であらわれるのが常だった。だから、こうして風呂からあがるのを待つのは初めてのことで、自分の家なのに居場所がないような心細い気持ちになる。

小平太と関係を持ったのは、最初の一回だけだった。それ以降、手すら握った事がない。互いの好意で始まったわけじゃない、割り切った付き合いなのだからそれも当然のことだった。しかも相手は幼馴染で、形だけだろうと恋人だからと、もっともらしく言い訳をして自分の欲望をぶつけることなんて出来なかった。それに、せめて二度目は、好きな人として欲しいと思った。

記憶してない小平太の肌は、どんな感触だろう。一度だけ見た背中を思い出す。日に焼けてない地の肌は、思いのほか白くて柔らかそうだった。あの頼りない背中を、いま目の前に差し出されたら、間違いなく後ろから抱きしめているんじゃないかと思う。
そこまで考えて、どこまで飢えてるんだと、ちらついた不埒な考えに、より一層、情けなさがこみ上げてきた。









「ありがとう」

バスルームから出てきた彼女は、来たときと全く同じ格好をしていた。部屋着じゃないことが不思議で首を捻ると、「だって、帰るし」と当たり前のように言われる。当然、泊まっていくものだと思い込んでいたのに、あっさりと否定されてちょっとだけ凹んだ。

濡れた髪を丁寧にタオルで拭う小平太に、ドライヤーを渡す。あたたかな風に揺れる髪の隙間から、細いうなじが覗いた。一度だけ見た柔らかな背中を思い出して、慌てて視線を外した。

「そういえば、なにか用事だったか?」
「あー、いや、…そうなんだけど、」

なんとも歯切れの悪い声だった。本心を隠すような口振りは、少し気分が悪い。

「いいから、言え」

強い口調で促すと、聞き取れるかどうかといった蚊の鳴くようなか細い声で「…招待状」と小平太が零した。

招待状といわれて思いつくものは、一つしかない。
最近思い出すことも少なくなった焦がれる相手が頭にぽんと浮かんで、とうとうこの時がきたかと思った。けれど、さほど胸が痛むこともなかった。覚悟していたからか、深酒をしたあのときのように息が詰まる事も、引き裂かれるような思いもしなかった。
少しづつ、でも確実に、思い出になってる。

「そうか」
「…それだけ?」
「早く、返事出さないとな」

出し方わかるか?
からかうように頭を撫でると、そのくらいわかると小平太が口を尖らす。髪の毛はすっかり乾いていた。









残り物で作ったチャーハンを食べたあと、小平太が「帰る」と腰を上げた。
時刻は十一時。終電ギリギリというほどじゃないけれど、それでも十分に遅い時間だ。

泊まっていけばいいのに。心の隅でそんなことを思う。
夜道を歩くなんて危ないし、今から家に帰ったら日付だって変わってる。明日に差し支えるんじゃないか?小平太を引き止める理由が頭の中をグルグルする。でもそれがなんだか酷く疚しいような気がして、口から滑り出すことはなかった。

駅まで送るという申し出はあっさり却下され、おまけに玄関まででいいと釘まで刺されてしまった。やけにさっぱりした顔で「平気だよ。」なんていうもんだから、余計になにも言えなくなった。

玄関で背中を向けたまま、トントンとヒールを履く小平太の旋毛を見る。
意識してみれば、自分よりずっと小さかった。細かった。思い切り抱きしめたら折れてしまいそうでなんだか怖いと思う。もちろん、そんなこと出来ないし、しないけれど。引き寄せた肩は、思ったとおり頼りなかった。普段の快活さからは想像できないくらい薄っぺらい体だった。一度でもその体を腕の下に置いたんだ。そう思ったら堪らなくなって、気がついたら手首を掴んでいた。簡単に指が一周まわる。その細さに心臓が飛び出るかと思った。それこそ、折れてしまいそうだった。

「…なに?」

掴まれた手首には目もくれず、まっすぐにこちらを見る。全て見透かすような視線が痛かった。

そういえば。
仕事を切り上げて作ったものを渡していないことに気がつく。小平太に、待ってるように言うと、急いで部屋に向かった。キーケースから一つ、鍵を抜く。ついでにマフラーも掴んで玄関に戻った。
いかにも男物な黒いマフラーを、小平太の首にぐるぐると巻く。本当は上着だって貸してやりたかったけれど、さすがにそれは嫌がられるかと思ってやめた。

「あと、これ」

小平太の両手を取ってやんわりと握ると、てのひらに銀色の鍵をのせる。作ってきたばかりの、合鍵だ。
今日みたいなことが、またあるとは限らない。けれど、ないとも言い切れない。もしあったら、小平太は今日みたいに寒空の中でずっと待ってるんだろう。そんな事させたくなくて、下心ナシの純粋な気持ちで渡したつもりだった。なのに、小平太が示したものは拒否だった。

「つかわないから、いい」

そういって押し返そうとする。正直、少し傷ついた。小平太は俯いて、穴が開きそうなほど足元ばかりを見つめていた。その様子に、なんだかいけないことを強いてる気分になる。映画の悪役ってこんな感じなのかと、場にそぐわない事が頭の隅を掠めた。

小平太の手をふわりと包む。「使わなくていいから、持ってろ。」と、精一杯優しく、でも真剣に言う。
別に、縛りたくて渡すんじゃない。いざというときのためだ。使わなくたってかまわないから。

それでも小平太は嫌だという。おかしく思って覗き込んで様子を伺うと、大きな瞳がちょっとだけ潤んでいて、ぎょっとした。
泣かすようなポイントなんてあったか。考えても考えても、思い当たる事がなくて、それとも、きもちわるいとでも思ったのかと考え直す。途端に小平太に如いた無体を思い出して、薄暗い気持ちでいっぱいになった。けれど、こうしてわざわざ会いに来てくれるんだから、特別嫌われてはいないだろう、と自分で自分を励ます。「使えといってるわけじゃない、あまり重く考えるな。」そう念を押して手を離した。

「……、じゃあ、もってるだけ」
「ああ」
「…ありがとう」

小平太は、鍵を渡した方の手をぎゅうっと握って、「マフラー、週末に返す」とそっけなく言った。余計な事をしたかな、と不安になったけれど、髪の毛の間から僅かに覗いた耳朶が朱に染まっていて、少し安心する。小平太は最後に振り返って、「おやすみ」と言うと、返事を待たずに扉は閉まってしまった。


「…こんなことされたら、期待する……」

玄関の外、搾り出すように落とした小平太の言葉は、耳に届かなかった。








君がくれた白い嘘








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2011/2/23





title:確かに恋だった



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