金曜日の午後。いつになく落ち着かない気持ちを抱えながら、長次はデスクに向かっていた。
 チクタクと時を刻む秒針の音ばかりが耳について、どうにも仕事が捗らない。デスクに並べた資料の束に目を通しているはずなのに、その内容はまったく頭に入ってこなかった。今日中に片付けねばならない仕事は山のようにあるのに。もっと、しゃんとしろ。自分で自分に渇を入れる。乱暴に頭を掻く。

 普段と違う様子に戸惑っていたのは自分自身だけではなかった。隣のデスクで仕事をこなす後輩が、先ほどからチラチラとこちら様子を窺っている。それがなんとなく視界の端から伝わってきて、大変居心地がよろしくない。さらに追い討ちをかけるように、「ここの数字、ゼロが一個多いような気が…、」と申し訳なさそうに書類を差し出されてしまい、ますますいたたまれない気持ちになってしまった。


 最後に小平太に会ったのは火曜日だった。金曜の夜以外に小平太からメールしてくるなんて初めての事で、最初はなにかあったんだろうかと少し心配になった。けれど、それ以上に言葉にしがたいくすぐったさや、あたたかな気持ちが混じっていたのも確かだ。


 合い鍵を渡したのは、小平太が初めてだった。
 己のテリトリーを侵されるのは、正直あまり好きではない。気の許す友人達を部屋に招く分にはかまわないけれど、自分の不在時に勝手に上がりこまれるのはどうしても抵抗があった。潔癖なのかもしれない。けれど、小平太にならいいかな、と思った。理屈ではなかった。
 小平太との曖昧な関係を言葉にするとしたら、恋人という名の毛皮をかぶったただの友人だと思う。そのくらい弁えているつもりだった。変な下心を出したつもりも、もちろん小平太を縛るつもりもなかった。疚しい気持ちなんて、一ミリもないつもりだった。なのに、鍵を渡した瞬間、小平太の目が揺らいだのを見て、ああ、しまった、と思った。
 使わないし、いらない。
 そう突き返されそうになって、半ば強引に鍵を握らせた。半分意地だったのかもしれない。

 あの日、小平太が涙した理由はいまだにわからないままだ。泣かせるようなことをしたつもりはないし、そもそも小平太自身、人前で泣くような性質ではない。
 そういえば、彼女の涙を見たのは何年ぶりだろうか。クラスの男子と取っ組み合いの喧嘩をして大字を作ったときも、体育の授業で着地に失敗して骨折したときも、中学最後の試合で敗退したときも、卒業式ですら、一粒の涙すら見せなかったのに。
 幼い頃から知っているだけに、泣かせてしまったと言う事実がより一層鋭さを伴って突き刺さった。


 無常にも定時を知らせる鐘が鳴る。結局山積みの仕事は山積みのまま、少しも片付かなかった。普段ならば諦めて休日出勤も視野に入れるけれど、本日ばかりはそうもいくまい。
 仕方なく残業を決め込むと、滅多に飲まないコーヒーを求めてオフィスを後にした。

 職場の目と鼻の先にあるコーヒーショップに立ち寄ると、カフェラテとベーグルをテイクアウトする。紙袋を抱えてオフィスに戻ると、後輩が目をぱちぱちとはためかせて「先輩が残業って、珍しいですね。」と言った。
 残業自体は特別に珍しいことではないと思う。むしろ定時退社できる日の方がレアケースだ。けれど、今日は金曜。暗黙の了解のように小平太と過ごすようになってから、この日だけは定時退社を心掛けていた。多分、そこの事を言っているんだろう。

「大丈夫なんですか?」
 人の良い後輩が心配そうに眉を下げる。後輩の顔を見ないまま「問題ない。」とだけ告げると、ショップロゴの入った紙袋をデスクの隅に追いやり、再びパソコンへと向かった。何も考えたくなかった。

 後輩に告げた「問題ない。」は、半分は自分に言い聞かせるためのものだった。

 小平太と微妙な空気のまま別れ、何の音沙汰もないまま、ついに明日が約束の週末だった。
 サイレントに設定した携帯を覗き込む。煌々と光を放つ液晶が映し出しているのはいつもと変わらないデフォルト設定の時刻表記のみで、期待していた新着メールの知らせはなかった。
 時刻はすでに二十時を越している。普段ならとっくにメールが届いててもいい時間だというのに、今日は来ないつもりなのか、小平太からの連絡はいまだになかった。

 週末は一緒に過ごすこと。
 そう条件をつけてきたのは小平太だけれども、泊まったり泊めたりは、そうしようと言われてしてきたことではなかった。ただ、なんとなく土曜日を一緒に過ごして、惰性でそのまま泊まることが増えて。それが積み重なって、金曜の夜からという流れになっていった。ただそれだけの話だ。
 約束をしていたわけではない。なんとなく続いていた習慣みたいなものだ。小平太にだって都合もある。気にするようなことではない。
 じゃあ、明日は?
 出かける約束をしているけれど、果たして大丈夫なのだろうか。これでドタキャンなんてされた日には、さすがに落ち込む気がする。いや、アレだけ楽しみにしていたんだ。そんなことを小平太がするとは思わないけれども。

 大体、自分は何をそこまで恐れているんだ。不安がっているんだ。たかだか友人と出かける約束をしただけだろう。
 大人になれば優先順位は自ずと変わる。都合がつかずに約束を違えることなんて、社会に出てからは良くあることだし、いちいち気にするようなことではないお互い様だ。大変だな。じゃあ、また次の機会に。いつだって、そうやって流していたはずだ。気にするようなことではない。なのに、なぜ、どうして、小平太相手だとこんなにも暗い感情がべっとりと張りついてしまうんだろう。
 そこまで考えて、過去に犯した過ちを思い出し、頭を抱える羽目になってしまった。小平太に対する後ろめたさを一番引きずっているのは、自分自身だ。



 はぁ。深い深い溜息を吐く。こうなってくると、週末にマフラーを返すと小平太が呟いていたのが唯一の救いだ。
 仕事に区切りをつけて、パソコンをシャットアウトさせる。買ってきたまま放置していた紙袋が視界の端に映り、ああ、そういえば買ったんだった、とようやく存在を思い出した。中身はすでに冷たい。今更飲む気も起こらず、かといってそのままゴミ箱に放ることも出来ず、しかたなく持ち帰ることにする。


 「ここのカフェ、結構使うんだー。」と小平太が零したのは、この奇妙な関係が始まって間もない頃だった。スーパーで貰ってきたらしいフリーペーパーのクーポンページを指差して、「お昼に良く使うんだ。」と零した。長次のオフィスから目と鼻の先にあるチェーン店のコーヒーショップは小平太の職場の近くにもあるらしい。
 失礼ながら、意外だな、と思った。小平太には、なんというか、女子力たっぷりな横文字のお店よりも、大衆食堂とかラーメン屋あたりの方がしっくりくる気がする。カフェより食堂、パスタよりラーメン、バーより居酒屋、みたいな。もちろんそんなことは口が裂けても言わないけれど。かわりに「栄養が偏る。」と苦い顔をする。そんな長次に小平太は「どっかの年寄りみたいなこと言うなよ。」と腹を抱えて笑った。

 知ってる人間の、知らない一面を知るというのは、かくも不思議なものだなと思う。同時に、小平太のいい部分もそうでない部分も、全部知っているつもりだったのに、実際には何も知らないことを思い知った。
 そういえば、小平太がどんな仕事をしているのかも、平日をどんな風に過ごしているのかも、どういうつもりでこんな関係を続けているのかも、なにも知らない。わからない。なにも、なんにも。





 定時をとっくにすぎた社内は静かなものだった。人口大理石が敷き詰められたエントランスホールに己の足音だけが響く。静寂は心の平穏そのもので、長次が好むものだった。けれど、今日ばかりはだめだ。嫌な考えばかりに支配されてしまう。
 普段なら不快で仕方ない雑踏を求めて、長次は自動ドアを潜った。
 まっすぐに駅まで向かう道すがら、小平太から連絡が来るんじゃないかと願っていた。普段ならサイレントのまま鞄に突っ込んで放置の携帯をバイブに設定しなおす。小平太からのメールを待ち焦がれるような行動。そんな己の女々しさから目を背けて、なにをしているんだろうと思う。
 気になるならこちらから連絡を取ればいい。明日どうするんだ? 一言そう聞けば言いだけのはなしだ。なにをそんなに躊躇うことがある。
 自分の中の冷静な部分ではそう思うのに、指が動かなかった。臆病な自分が現実と向き会うのを拒んでいる。もう笑うしかなかった。



****



 いつも見ている景色が、どこか色あせて見えるのが不思議でたまらなかった。

 重い足取りのまま、気がつけば自宅は目と鼻の先というところまで来ていた。期待していた小平太からの連絡は、もちろんない。もう何度目かわからない溜息を吐くと、沈黙を保ったままの携帯を再びポケットに逆戻りさせた。代わりにキーケースを取り出す。
 部屋に入ったら、まずシャワーを浴びよう。嫌なものはすべて洗い流して、さっぱりして、ついでに腹を満たして。それから小平太にメールして。
 そんな風にこれからの算段をつけ、ふと上げた視線の先。目にはいってきた光景に、おもわず息が止まりそうになってしまった。

 手にしていた鞄と紙袋が、ぐしゃりと音を立ててアスファルトに転がる。嫌な音だ。口をつけることもなく地面に吸い込まれていった可哀想なカフェラテの惨状がありありと想像できて、頭の冷静な部分では、ああ、拾わないとなぁ、と思う。なのに、ぜんまいが切れたおもちゃのように体が動かなかった。それもこれも、マンションの入り口前に、人影を見つけたからだ。
 火曜日と同じように、けして明るいとは言いがたい電燈を背にして、今の今まで長次の脳内を占めていた人物が、そこにいた。

 通せんぼをかけられたみたいに、声が出なかった。嘘だろう、と思う。ついに幻覚を見るほどおかしくなったのかと、手の甲で荒っぽく瞼を擦る。瞬きを繰り返す。けれど、双眸に映る光景は、やはり一緒だった。

「……小平太、」

 にわかに信じられないまま名を紡ぐと、自分の足元に落としていた小平太の視線がこちらに向く。ぼんやりとしていた小平太のまなこが、色を取り戻し、ぱぁっと輝く。まるで、ご主人を見つけた飼い犬のようだ。

「長次、おっそ!」

 すっごい待ったぞ! と顔をほころばせる小平太のほっぺたは、林檎みたいに真っ赤に染まっていた。一体、いつから待っていたんだろう。吐き出す息が、真白い。

「…………どうして、」

 何故ここにいるんだ、とか。いつものメールはどうした、とか。聞きたいことがいくつもいくつも零れ落ちてくる。なのに、どうしたことだろう。言葉がうまく出てこなかった。代わりに心臓がぐんぐんと速度を上げ、冷え切っていたはずの指先が熱を持つのがわかる。予想外の小平太の行動と、うまくコントロール出来ない感情がごちゃまぜになって、長次を襲う。

「なんでって……、だって言っただろう? 週末に返すって!」

 そう言って小平太は足元に置いていたショップバックから、黒いマフラーを取り出した。見覚えのあるそれは、火曜日に長次が貸したものだ。ご丁寧にもクリーニングに出してくれたらしい。こちらが勝手に貸しただけなのだから、そこまでしてくれなくても良かったのに。そんな言葉が喉元まで湧き上がる。
 なにをどう言葉にしていいのかわからなかった。
 言葉を詰まらせる長次に一歩二歩と近づくと、「なんか、寒そう。」と小平太が呟いた。それはこっちの台詞だ。耳まで真っ赤に染めているお前の方が、よっぽど寒そうに見える。そんな長次の憎まれ口が言葉になるより先に、小平太が両手で持ったそれを長次の首にふわりとかけた。

 それはまるで、ドラマか映画のワンシーンのようだった。ろくに通行人のいない住宅街の道のど真ん中で、すぐにでも抱きしめられそうな距離で、自分の前に立つ小平太がイタズラ成功を喜ぶ子供みたいな表情を零す。「これで寒くないな!」と笑う。
 冬に片足を突っ込んだ夜は寒い。なのに、嘘みたいに顔が熱くなった。うまく呼吸が出来ない。息を吸って、吐いて、また吸って。そんな単純で当たり前のことがうまく出来ない。まるで呼吸の仕方をそのものを忘れてしまったみたいだった。
 これはもう火曜日の比ではない。動揺を隠すように小平太から目を背けると、四方八方に視線を巡らせる。冷静さを装うのにとにかく必死だった。

 そういえば、なんで小平太はこんなところで待っていたんだろう。動揺の片隅で、そんな疑問が湧き上がる。
 まだ深夜ではないけれど、どうひっくり返しても明るいとはいえない時間帯だ。人通りだって少ない。それに。

「……なんでここにいるんだ、」
「? だーかーらー、さっき言ったじゃん。マフラー返しに来たんだって」
「そうじゃなくて、どうして、こんなところで待ってたんだと聞いている。……この前、鍵を渡しただろう、」

 何故使わなかった。そう問いかける長次に、小平太はなにも答えなかった。






君がくれた白い嘘






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2015/3/10





title:確かに恋だった



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