チン、と軽快な音を鳴らし、エレベーターが目的の階に辿り着く。開かれた扉を潜りぬけ、長次は鉛のように重くなった足を前へ前へと動かした。
たった数歩で到着した我が家はいつも通り真っ暗で、人気など一切ない。一人暮らしなのだからそれは当然の話なのに、どうしてだろう。今日ばかりは心にぽっかり穴が空いたように、寂しくて寂しくてたまらなかった。

一人暮らしの部屋がこんなにも寂しいと思ったのは、初めてだった。一人でいるのは気楽だし、なによりも平穏を求める長次にとって好都合で、不都合だったことはただの一度としてない。
なのに、どうしてこんな気持ちになるんだろう。どうしてこんなに苦しくなるんだろう。理由のわからない後悔が押し寄せてくるんだろう。



部屋の明かりをつけると、漆黒から色を取り戻した世界が視界に飛び込んでくる。フローリングに毛足の長いラグ、その真ん中には純和風のコタツ。日の当たらない壁側には自分の背ほどの高さの本棚があった。上から下、右から左までハードカバーと文庫の本が連なっている。正真正銘の自分の部屋だ。なのに、どこか違って見える。色を失ったように褪せて見える。帰り道の風景と、一緒だ。

ぐちゃぐちゃになったカフェラテと、巻き込まれ不運でカフェラテの餌食になってしまったベーグルを、紙袋のままゴミ箱に放り込むと、一直線にバスルームへと向かう。
乱暴にネクタイを緩めて、ワイシャツを脱ぎ捨てて。いつもなら皺になるからとハンガーにかけるスーツもその辺の床に適当に放ると、熱めに設定したシャワーのコックを捻って頭から浴びた。


マフラー返しに来た! と笑って出迎えてくれた小平太は、目的を果たすと、「明日遅れんなよー。」とだけ言い残して驚くほどあっさりと帰ってしまった。
用事が済んだから自分の家に戻った。別に至極普通で、当たり前のことなのに、なぜか「どうしてだ。」とむくれている自分がいる。
ちょっとくらい寄って行けばいいのに。お茶ぐらい出すし、少し温まってから帰れば良かったのに。なんなら泊まっていったって構わなかったのに。そんな女々しい感情がとぐろを巻いて腹に居座っている。

寂しいとか、手放したくないとか、一緒にいたいとか。明らかに友情の範囲を超えた独占欲だった。小平太はそんなことちっとも思っていないのに、求めていないのに。自分に対してまっすぐ向いている小平太の友情を踏み躙っているような気がして、裏切りとも取れる感情を持ち始めている己が気持ち悪くてしかたない。

早く洗い流してしまいたかった。どろどろとした欲情も、もっともっとと願う切望も、泣きたくなるほど締めつけられる苦しさも、全部、全部、降り注ぐシャワーと一緒に、排水溝に吸い込まれてしまえばいいのに。



風呂から出た後も、何もしたくなかった。脱ぎっぱなしのスーツを吊るすのも面倒だし、ワイシャツを洗濯機に放るのも以下同文だ。濡れた髪を拭うことすら面倒で、肩にタオルを引っ掛けたままコタツの前に座った。

ただぼんやりと時が流れていく。
束になった毛先から、しずくが一つ、二つと滴る。落ちたものがテーブルに水溜りを作る。徐々に広がっていくそれを双眸に映して、拭かなければ、と思う。なのにやっぱり動くのが億劫で、見ない振りを決め込むとテーブルへと突っ伏した。

ぐう、と腹が唸り声を上げる。そういえば、夕食もまだだった。時間が来れば自然と腹は減るのに、まったく食べる気は起きないのが不思議だった。

そういえば、残業のお供にと買ったベーグルもカフェラテも、結局一口も食べなかったことを思い出す。残業のお供にと思ってわざわざ買いにいったのに、袋から出そうともしなかった。
どうして私はあんなものを買ってしまったんだろう。いつも通り、角を曲がって行った先のコンビニで、お茶とおにぎりを買えば良かった。そしたらこんな風にぐちゃぐちゃになることも、食べ物を粗末に扱うこともなかったのに。どうして、どうして。

本当に、自分はどうしてしまったんだろう。一人相撲では答えが出るわけもないのに、頭を埋め尽くすのは「どうして」ばかりだ。


ぎゅっと目を瞑ると、どこかで何かが音を立てていることに気がついた。
ブブブ、と響く低音の振動。ああ、携帯が鳴っているのか。

仕事用とプライベート用、どちらもバイブレーションに設定にしていたから、どちらの呼び出しなのか、ここからでは判別がつかない。仕方なく立ち上がると、緩慢な動作で放置したままの荷物を回収に向かった。

鞄から仕事用を、スーツの上着からプライベート用を拾うと、そのままベッドに腰を落ち着ける。
着信を告げるランプが点灯しているのはプライベート用の方だった。ふう、と息を吐くと一思いに画面を開く。ぱちりと音を立てて光を取り戻した液晶がメールの送り主を映し出す。
――――小平太だ。

まぶしい白にくっきり浮かぶ名前に、信じられないほど心が揺さぶられる。

明日楽しみにしてる、とだけ綴られたメールには、女の子らしい絵文字も顔文字もなかった。たった一言の殺風景な文面だ。なのに、凍っていた心が融けるようにあたたかさを取り戻す。真綿に包まったようなくすぐったさが湧き上がる。

小平太が楽しみにしているのはあくまでも大道芸で、メインはそちらで、別に長次との旅行を楽しみにしているという意味ではない。そのくらいわかっているつもりなのに、沈んでいた気持ちの急浮上に動揺が隠せなかった。

どう返事をするべきか、少しだけ考えてから「わたしもだ。」とだけ打ち込む。本当はもう少し気の利いた言葉を綴るべきかとも考えたけれど、文面の端々に変な下心が散りばめられてしまいそうで選択肢から即行で排除した。

送信完了を確認すると、仰向けで転がる。

「…………下心って、なんなんだ」

あほか。自分で自分の発言にツッコミを入れる。

ちくちくとした痛みも、タールのように真っ黒な感情も、自分だけに向けられた笑顔にときめく気持ちも、すべて覚えのあるものばかりだった。
嘘だろう、と思う。錯覚か勘違いであって欲しいと願う。
現実逃避だと罵られても構わない。全部見ない振りをすることに決めると、泣きそうな気持ちに包まりながら、そっと瞼を伏せた。



*****




寝たのか寝てないのか、曖昧な夜を潜り抜けて向かえた明け方。長次がなによりも先にチェックしたのは、今日が土曜日であるか、と言うことだった。
ぼんやりとした頭でそっと携帯を開く。眩しいくらいの白にくっきりと映る日付。こんなものに、胸が締めつけられたように苦しくなる日がくるなんて。

約束の土曜日。今日、小平太と一泊旅行する。




前もって約束していた待ち合わせの時間は、駅前に九時集合だった。朝日が昇るか上らないかの境界線をまたぐ今なら、二度寝したって余裕で間に合う。けれど、もう一度寝る気などさっぱり起きなかった。さっさと布団から抜け出すと、まっすぐに洗面所に向かう。冷水で顔を洗うと、不鮮明だった意識がはっきりとしてくる。現実を取り戻してくる。

ああ、ついに今日なのか。

ぎゅっと瞼を閉じて、やってきた現実に浸る。嬉しいような、そうでないような、不思議な気持ちだった。別に友人と旅行をするだけで、特別な何かなんて一ミリだって存在しない。するはずがない。なのに、なんとなく芽生え始めてしまった感情が、疚しさと妙な期待に拍車をかけていく。
ほっぺたから顎を伝って、ぱたぱたと水滴が落ちる。洗面台の前、鏡に映る自分の落ち着きのなさに不恰好な笑いが零れた。

濡れたまま放置していた髪の毛は、寝癖がついてあちこち跳ねていてひどいものだった。ぴょこぴょこと重力に逆らって飛び上がる毛先を摘み、まるで小平太みたいだなぁと思う。

大人になった今でこそ、そこそこ落ち着いているけれど、小さい頃の小平太の髪の毛の有様といったらそれはもう凄まじかった。
男と見間違えそうなショートカットだったということもあったかもしれない。けれど、それを差し引いたとしても、小平太の自由すぎる髪の毛はいつ見てもありとあらゆる方向にぴょこぴょこ飛び跳ねて、まるで言うことを聞かなかった。一応女子なんだから、もう少し何とかならないのか。そう思って一度だけ、彼女の髪にドライヤーを当てたこともあった。指と指の間に絡む、こしの強い髪の毛。一本芯の通ったようなそれは、まるで小平太のようだと思った。
その時は、どれだけ丁寧にブロウを施しても落ち着くことはなかった小平太の髪も、肩を超え背中に触れるくらいの長さまで伸びる頃には、目に余るとまではいかなくなっていった。とはいえ、癖っ毛なのは変わらず、毛先は自由に飛び跳ねたままだったけれど。
例えるならば、おおかみの尻尾というべきか、頭のてっぺんで結わえたポニーテールが右へ左へ、上下左右にぴょこぴょこと跳ねて、どれだけたくさんの人が犇めいていようと、一発で「ああ、小平太がいる。」とわかった。

そういえば、小平太はどうして髪の毛を伸ばし始めたんだろう。少なくとも小学生の頃は、両親がどれだけ強請っても、結うのが面倒とか、女の子っぽくてむず痒いとか、言い訳を並べて全力拒否を貫いていたのに。

今も昔も、自分は全然小平太の事を知らないんだな、と溜息をつく。いや、知らなかったんじゃない、知ろうとしなかったのか。その事実を嫌と言うほど思い知り、心にぽっかり穴が空いたような空しさを覚えた。








君がくれた白い嘘






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2015/12/01





title:確かに恋だった



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