仙蔵に突然殴られた。
殴られただけじゃない。鳩尾を数発蹴られて長屋から追い出され、最終的には焙烙火矢まで投げられた。
これで最初にお見舞いされた左頬が一番重傷なのだから、自分で自分を褒めてやりたいと文次郎は思った。
「また留三郎と喧嘩でもしたかと思ったよ」
せっせと氷嚢を作る伊作がくすくすと笑った。
暴れまわる仙蔵から逃げた先は医務室だった。頬を腫らした文次郎を前に伊作が放った第一声は「留三郎は!?」だった。
おい、俺の心配もしてくれ。保健委員長。
それから事の経緯を一通り説明し、今現在治療を受けている。
「仙蔵が怒るなんて珍しいねぇ」
僕も見てみたかった、と唇を尖らせる伊作に心底げんなりする。
伊作は理性のプッツリ切れた仙蔵を知らないから、そんな軽口が叩けるんだ。怒りを通り越してキレた仙蔵はとても怖い。といっても滅多なことでは動じない奴はそうそう怒りもしなければキレたりもしない。どちらかというと頭に血の上りやすい文次郎や留三郎あたりをおちょくる事を楽しんでいるくらいだった。
仙蔵がキレる種といえば、留三郎の後輩、湿り気たっぷりの1年坊主が絡んだときくらいだ。
「よくわからんが、普通に会話してたら急にキレた」
「なんか変なことしたんじゃないの?」
「馬鹿たれ!せんわ、そんなこと!」
そうだ、仙蔵がキレる半刻前までは確実に会話をしていた。内容は指しあたっておかしなものではなかった。先日行った変姿の術が話題に上がって、仙蔵の女装は見事だな、というような会話をしたくらいだ。女装という単語に仙蔵は怒ったりしない。むしろ、お前には到底真似出来ないだろう、と鼻で笑われた。
惚れた贔屓目で見なくとも、仙蔵の女装は実に美しいと思う。
そんな事は本人の前で臆面なく言えるわけもなく、常に心の中で思っているだけだが。
「うーん、怒る理由なんてないよね」
「だから納得出来ねぇんじゃないか」
伊作から氷嚢を受け取ると、じんじんと熱を孕むそこへぎゅっと押し当てた。
薄い膜越しに感じる冷たさが気持ちよかった。
「でもあの仙蔵だよ?絶対なんか理由あるって」
だから思い出して、喋って、と必死な眼をした伊作に問われると正直弱い。
ぼりぼりと頭を掻いて、仙蔵が飛び掛って来るまでの経緯を振り返った。
偶には空気を変えよう、と開け放たれた襖からは柔らかな陽の光と春風が流れ込んでくる。
特に決めてるわけではないが、俺様気質な仙蔵は他人の分の茶を用意するというごく当たり前(だと俺は思っている)なことは一切しない。茶も出さない。菓子も出さない。ただ文次郎が用意するのを待っているだけだ。
これで作法委員長とは随分なもんだなと思う。
しかし反論したところで、仙蔵に口で勝てるとは到底思えないので、黙って茶を出す。
仙蔵は茶の味にも五月蝿い。蒸らす時間がどうとか温度がどうとか、とにかく細かいのだ。自分ではやらないくせに。
それでも仙蔵の望み通りに、少し温めのお湯で少し時間をかけて茶葉を蒸らす自分がいじらしい。
結論から言うと、茶はきちんと出した。味も仙蔵の望みどおりに。茶を啜った仙蔵も、腕を上げたな、と褒めてくれたくらいだ。
その後は仙蔵様のお茶講座が始まったので割愛。あのときの仙蔵は実に生き生きとしていた。
という事で、茶の線も消えた。
さて次はなんだったか。
そうだ、それで化物…もとい、変姿の術の話になったんだった。
最初は文次郎の酷い女装を思い出した仙蔵が、腹を抱えて笑っていた。どっちかというと、この時点では文次郎の方が怒りたい気分だった。そんな事はしないけれど。
話題の中心が自分の女装なんて気が滅入る。すかさず、仙蔵は素晴らしかった、と話題の矛先を変えてやれば、上機嫌で話に乗ってきた。
その後は……。
「その後は?」
伊作に先を促され、少々言葉に詰まる。
「仙蔵が、他に女装のうまい奴はいたか、と聞いてきたので」
「ので?」
「…伊作はどうだと、答えて」
伊作が盛大に顔を顰めた。女装の話題で自分を出されるなんて思ってもいなかったんだろう。どうやら本人にも自覚はあるらしい。伊作の女装は少々、…いや、かなり破壊的だと思う。これは顔立ち云々の問題ではなく化粧が下手なのに他ならない。だから伊作はあまり女装を好んでしない。
一応言っておくと、このときも仙蔵は怒っていなかった。
あいつは元がいいのにな、と溜息を吐いていた。因みに粉の叩き方とか紅の選び方とか着物と帯の合わせ方とか、ものすごく細かい駄目出しを伊作に対してしていたのは黙っておくことにする。
「そしたら、他には?と聞かれて」
「うんうん」
「差し障りのないところで、五年の鉢屋の名前を出した」
「それは賢明な判断だね、それで?」
「六年生から選べといわれてしまって」
あ、と声があがった。
まさか、まさかこれに関して腹を立てたのか。
嫌な汗が背中を伝った。
「……留三郎、と言った」
さすが用具委員というべきか、留三郎は非常に器用だった。けして女顔というわけではないのに綺麗に紅を引く。黙って立っていれば立派に女だった。すごく気が強そうで女子の可憐さは微塵も感じないが、アレはアレでいいじゃないかと言った。
そうだ、そういって仙蔵の前で笑ったのだ、俺は。
そして駄目押しの一言。
気の強い女は嫌いじゃない。
「…文次郎」
目の前の伊作は確実に怒っていた。背後に真っ黒いオーラが見える。なのに顔が笑っていて怖い、仙蔵よりももっと怖い!
「何が悪いかわかってる?」
「…つもりだ」
とどのつまり、仙蔵は留三郎に嫉妬したのだ。そしてきっかけを作ったのは文次郎自身だった。
留三郎にしたのか、最後の余計な一言に嫉妬したのか、それは今の文次郎では計りきれないが、自分の言葉に仙蔵がアレだけの過剰反応を示したんだと思うと、不謹慎にも嬉しく感じてしまった。
「じゃあ次にするべき行動もわかってるよね」
「ああ」
すっかり解けてしまった氷嚢からは生温さしか感じない。存在意義を失った氷嚢を伊作に手渡し礼を言うと、医務室を後にした。
長屋までの廊下をひたひたと歩く。
さて、どうして謝ってろうか。普通に頭を下げただけで許してくれるだろうか。どうすれば彼から許しを乞うことができるのか。
廊下の先の部屋で待つ仙蔵を想うと、なぜだか顔が緩んでしまう。
可愛いところもあるじゃないか。
そんな君のためならなんだってしよう。
そう、例えば。
諸白担いで、土下座。
了
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2010/9/6
※諸白=酒銘・上等な酒
仙蔵にとことん甘い文次郎が書きたかったんです。
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