(前半から抜粋)





瞼をとじれば、思い出すのは情欲に駆られた留三郎だった。

伊作の中の留三郎は、いつだって良識ある紳士で、端的に言ってしまえば、男の顔をした彼を見たのは初めてのことだった。

怪我をした伊作を自宅まで送ってくれた時も、涙が止まらなくて電柱の陰でうずくまっていた時も、怖そうな外見からは想像できないほど優しく手を差し伸べてくれた。いつだって袋小路に迷い込んだ伊作を救い出してくれる。留三郎は、伊作にとって最愛の人で、ただ一人の王子様だった。

くっつきすぎず、だからといってこちらが不安になるほどの距離感は与えない。そんな絶妙のさじ加減でそばにいてくれる留三郎は、本当に理想の恋人で、そんな彼の別の一面だった。

彼と自分との性差を垣間みて、嫌悪感ではない別の何かに酷く揺さぶられる。

素面では考えられないような淫らな手つきで伊作を翻弄する留三郎は、とてつもなく色っぽかった。伊作にどうしようもないほどに情欲を掻き立てられているのか、いつもは優しさを含んでいる瞳が、獲物を狙う狂暴な獣へと変わっている。

は、と吐き出した息。汗ばんだ手のひら。すべてが確かな熱と、焼けつくほどの劣情を含んでいる。こんな留三郎は、見たことがなかった。



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砂糖菓子のような甘い一夜だったと思う。まさに夢のような時間で、あの日は伊作にとって今年一番思い出だった。けれど本音としては、それを上塗りする新たな一ページを誂えたい。そう思う。

なのにどうしたことか、その日を境に、またしても留三郎と会うことがかなわない日々が続いているのだから、ゼロに戻ったはずの伊作のフラストレーションは再び募る一方だった。


あれから一度も電話はない。電話どころかメールすら、朝帰りしたその日の昼に「体、大丈夫か?」という素っ気ない一言が届いたのみで、腑に落ちない気持ちでいっぱいになる。

いまだに沈黙を守っている携帯は大事な連絡ツールなのに、こちらの想いを一向に汲んでくれないそれに、どうにも憎い気持ちが拭えなかった。

ベッドの上で大好きな真白いクマのぬいぐるみを抱きしめながら、重苦しい息を吐く。枕元には携帯。いつ連絡が来てもすぐさま手に取れるようにと、常に肌身離さず持ち歩いてる自分が馬鹿みたいだった。

そんな努力とは反比例するように、携帯が届けてくれるのは期待外れの広告メールばかりで、すっかり肩透かしを食らっている。

自分の滑稽さに気持ちが淀んでいく。それでもほんのちょっとの期待が心の隅から離れず、傍らに置いた携帯に望みをかける日々ばかりだった。

どうして、電話くれないのかなあ。

ここ一週間ほど頭の中を埋め尽くすのはそんなことばかりで、まったく進歩のない現状に心底嫌になる。

いや、気持ちを抑え込んでグルグルすることなく、留三郎ってばひどい! と感情丸出しで一人寂しく暴れるくらいには成長しているけれども。

ごろりと寝返りを打つと、両手を投げ出して大の字に寝転がる。伊作の手を離れた可哀想なクマは、固いフローリングに落ちていった。

回を重ねるごとに、溜息が深くなる。もちろん待つばかりでなく、自分からモーションをかけるという選択肢もあるのだ。あるけれども……、と天井を仰ぐ。

寂しい気持ちを抱えているのだから、待ち続けるだけのシンデレラはやめて、あの日のように電話かメールの一つ送って、「会いたい。会おう。」と約束を取り付けたらいい。そしたら空欄だったスケジュールも埋まり、ぽっかり穴が開いて物足りなさを感じていた自分の気持ちだって満たされる。満足いく結果が得られるはず。けれど、それだけの問題ではなかった。

こちらから言うのは容易い。けれど、それでは本心から満足はできなかった。いや、満足できるけど、足りないというべきか。多分そんな、曖昧な気持ちを抱えることになる。だからどうしても一歩は踏み出せなかった。

(留三郎も、僕を求めてよ、)

自分と同じように必死になってほしい。いっぱい求めて欲しい。

重石のように乗っかってくる本音から目を背けるように瞼を伏せ、鳴らない携帯を片手に枕に深く顔を埋めた。










不貞寝でゴロゴロしていたつもりが、いつの間にか本気で寝入っていたらしい。ふと瞼を持ち上げると、部屋の中もガラス越しの外もすっかり暗くなっていた。

のそりと緩慢な速度で上体を起こすと、瞼を二回擦る。大きく伸びをしたところで、自分の手元の辺りで何かが光っていることに気が付いた。

白い点滅が続いている。これはと思い、ベッドの上に手を這わせ、光源を探る。カツンと音を立てて指先に固いものが当たり、そのまま手のひらを伸ばして勘を頼りに引っ掴む。握りこんだ感触から、やっぱりだと息を呑む。

「…………けいたいだ……」

暗闇の中、手探りで携帯を開く。眩しすぎる白々とした光が飛び込んできて、思わず目を細めた。

明るさになれるのを待って、ゆっくりと瞼を持ち上げると、今度はこれでもかというほどに眼を開くことになった。

煌々と照るディスプレイに映るのは、着信のお知らせだった。

そこに添うように留三郎の名前があって、世界が止まったみたいに、頭の中まで真っ白になってしまう。

微睡ではっきりしなかった意識が、一瞬で目覚める。
なんで、と思ったのはほんの一瞬、考えるよりも早くリダイヤルを押す。

急に電話なんて、どうしたんだろう。いや、そんなことよりも、どうして自分はのうのうと寝こけていたんだろう。

あれだけ待ち焦がれていたのに、肝心な時に反応できない自分を心の中で罵る。待ちに待った留三郎からの着信に、いの一番に反応できなかったことが、悔しくて悲しかった。

耳元に押し当てた携帯を両手で握りしめる。コール音が続く。

二回、三回、と心の中でカウントしながら繋がるのを待つ時間は、一分もかかっていなかったはずなのに、永遠に続くのではと思うほどに長く感じられた。

四回、五回、六回。頭の中で指折り数える。ちょうど七回目に差し掛かったところで、繋がった電話。電波が運んできたのは、まさかの誘い文句だった。

『明日、海行かないか?』

受話器越しのお誘いに、一瞬何を言われたのかわからなかった。寝起きで鈍い思考をフル回転させて、留三郎の言葉を咀嚼する。

海、明日、行く。

ブツ切れの単語を落としこんで理解するのに、たっぷり三十秒はかかったと思う。



「……ええと、もしかして、これって、デートのお誘い?」





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(中盤から抜粋)






なんでそんな展開になっているのか。恋愛の駆け引きを知らない伊作には皆目見当もつかない。けれど、いま確かにキスをされている。その事実に全身が馬鹿みたいに強張ってしまった。

「…っん、ふ…、」

啄むような口づけは、隙をついて蝕むように深さを増していった。下唇を食むように舐められ、ぞわりと背中が震える。縋るように、留三郎の肩に手を這わすと、それを合図に、更に深く苦しいほど抱きしめられる。

ふわふわとして、とにかく夢見心地だった。それは、つい数日前、境界線を越えた時のように甘く、綿菓子か砂糖菓子のような脆さを含む。キスは見る間に深く、濃くなっていって、腰のあたりに灯り始めた甘い痺れに足元から崩れそうになる。足に力が入らない。がくりと倒れてしまわないように、必死で留三郎に縋った。

自分の行動そのものに羞恥心を感じても、自分の意図と全く別物として捉えられていたとしても、求められていることや、留三郎から向けられる情欲を拒む気なんて更々なかった。

大好きな人がしたいことは、自分だって分かち合いたい。

自宅でと思えば良心は咎めたけれど、それ以上に燻り始めた熱の方が上回った。

留三郎の舌が、伊作の咥内を犯す。ぬるりと上顎を舌が這い、腰のあたりに疼きを感じる。息が上がる。羞恥心に消えたくなったのが嘘のように心が熱を上げ、留三郎の気持ちと重なっていった。

早く部屋に行こう。そのつもりで留三郎の耳朶を食む。途端に世界が反転し、あっという間に玄関の真ん前、無造作に靴の散らばる土間床に足を落とす形で、廊下に転がされてしまった。

視界に飛び込んできたのは、吹き抜け上になった玄関ホールの電灯。そして覆いかぶさってくる留三郎自身。え、と思ったのは一瞬で、二の句を告げる暇も隙もなく再びのしかかってきた留三郎に、金縛りにあったように身動きが取れなくなってしまった。



えっ、えっ。ここ、玄関なんですけど!



転がされた端から首筋に噛みつかれて、大袈裟なくらいに肩が跳ねる。慌てる伊作を余所に、留三郎の手が腰から脇を撫で上げて鳥肌が立った。








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初体験から一週間後のおはなし。
こんな感じで留三郎が玄関で盛ります。




2012/10/23