「いやあ、手元が滑って、」というテンプレートな言い訳とともに、手元に戻ってきた一冊は、なぜかご丁寧に袋に覆われていた。こいつは、こんな律儀なことをする奴だっただろうか。不振に思いつつ受け取ったそれを取り出して、長次は口元が引くつくのを押し隠せなかった。

「すまん!」

廊下の真ん中、同級生たちが溢れている中で、腰を九十度以上に曲げて頭を下げる友人に、冷ややかな視線を送る。長次の手にあるのは、見るも無残に破壊された本。そしてこれは長次のお気に入りの一冊だった。

つい数年前、映画化されたこともあって、気になってると言っていた文次郎に貸したのが数日前のこと。それがどういうわけか、真ん中あたりで真っ二つになって返ってきて、火山のごとく湧き上がってくる怒りで目の前が真っ赤に染まる。

「ちょっと仙蔵と揉めて、そのうち喧嘩になっちまって、そしたらあいつ、手当たり次第に物投げてきて、」
「借り物の本を、喧嘩の小道具に使ったのか」
「俺じゃねーよ!」

文次郎の言い逃れに、一つ二つと青筋が立つ。
どっちにしても、揉め事の種は文次郎にだってあるはずだ。仙蔵だけのせいにするんじゃない。そんな意味合いを込めて睨んでやると、蛇に睨まれた蛙のように小さくなって、もう一つの袋を差し出してきた。中身は、同じタイトルの本だった。

保護用のビニール加工が施されたままのそれは、どこからどう見ても新品そのものだ。
代替え品まで差し出して、土下座の勢いで謝り倒す友人を前に、とてつもなく懐の小さい人間になったような気分に陥る。心の奥が苦さでいっぱいだった。それでも、怒りはおさまってはいない。
長次は教室中の机を蹴っ飛ばしたくてたまらないのを腹の底に抑え込んで、「もういい。」と諦めたように声を上げると、一直線に図書室へと向かった。



廊下を闊歩してるうちに少しは治まるだろうと思っていた不機嫌は、古びた図書室の室名札の下まで来てもちっともよくならなかった。
立てつけがいまいちな扉を、常にない乱雑さで開ける。ガタガタッと激しい音が耳を劈くのと、カウンターにいた後輩がぎょっとした顔でこちらを見たのはほぼ同時だった。まったく自覚はなかったけれど、相当恐ろしい顔をしていたらしい。

「僕がとんでもない不始末でもやらかしたのかって、焦りましたよ」

手の甲でしきりに額を拭っていて、なんだか申し訳ない気持ちになってしまう。
例のぼろぼろになってしまった本を見せれば、怒りの理由に合点がいったらしく、こちらが求めるよりも早く修繕用の道具がずらりとカウンターに用意された。
まったく気が利くやつだ。
それを受け取ると、窓際に縦に三つ並ぶ学習スペース、その中の一番カウンターに近い席に腰を下ろして作業に取り掛かった。すると、カウンターにいた後輩が「珍しい。」と首を傾げた。

「いつも真ん中の席に座ってらっしゃるのに」
「…………」
「なにか、心境の変化でも?」

壊れた本の背表紙を剥がすべく這わせたカッターが、戸惑いで揺れる。

確かに学習スペースの真ん中のテーブルは、長次が作業するのに好んで利用していた席だった。その前には大きめの窓があって、ガラス越しに体育館がよく見える。

窓辺に近づいて下を覗きこめば、こちらに向かうように水飲み場と適度な木陰が並んでいて、そこで休憩時間を過ごすことの多い体育館組の楽しげな様子が窺える場所は、いつの間にか長次の特等席となっていた。

こちらから見えるということは、向こうからも見えているということで。いつからそこを避けるようになったのか。少なくとも新しい学年を迎えてから、この数週間は出来る限り近寄らないようにしていたけれど、そこまであからさまにしていたわけじゃないのに。ぽやっとした雰囲気の後輩は、実は相当な観察眼を持ってるんじゃないだろうか。

「……別に、なんでもない」

はぐらかすように瞼を伏せると、半端にしていた修補の続きを再開した。

ビニールテープで固定するのが一番早いけれど、年単位でもたないそれは修繕とは言えない。綺麗に背表紙を剥ぐと、ページがズレないように整えてからクリップで止める。そうして固定した背の部分に糊がしっかりつくように溝を切り込むと、拝借したビニダインで糊付けを施していく。あとは接着部分を圧迫して乾くのを待ってから、表紙と新たに作った背表紙を張り付ければ終わりだ。

本の形に整えるのは明日にして、四方八方をクリップで固めたそれを、準備室に間借りさせてもらった。

作業しているうちに全身を覆っていた怒りはすっかり萎んで、私物なのに、職権乱用みたいでなんだか申し訳ない、そんな気持ちが込み上げてくる。そんなこちらの気持ちはお見通しなのか、「口止め料に、今度、あれ貸してくださいよ。」と忍者を題材にした歴史小説を強請られてしまった。






教室に戻ると、そこはすっかり藍色に影を落としていた。
暗がりの中、携帯を確認すると、メールの着信が一件。サブディスプレイに煌々と照る名前は小平太だった。

『まだいるなら一緒にかえろー』

件名もないシンプルなそれには、絵文字とごろか句読点すらなかった。まったく小平太らしい。
受信したのはほんの十分前、少し迷ってから繕った返事は、遅くなるから先に帰ってろ、というものだった。

送信しました、の文字が液晶に浮かぶのと同時に、後悔の波が押し寄せる。

こうやって、小平太からお誘いを断るのは何度目だろうか。嘘を吐いてまで遠ざけて、それが好きで好きでたまらない相手だったらなおさら心が痛まないわけがない。

自覚していなかった分も含めれば、約二年の片想いだった。それをめでたく実らせたのが、三か月ほど前のこと。一般的に見れば今が一番楽しい時期で、本来だったらそうなる予定だったのに、現実は全く違っていた。

机にぱたりと顔を伏せる。こっそりと吐き出した息が、ハウリングのように鋭くじわじわと己に突き刺さった。





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(冒頭から)



2012/9/24