本日の委員会活動も、恙無く終了時刻を迎えた。綺麗にした虫壷や籠、虫取り網をそそくさと所定の位置に戻して、竹谷先輩が解散を告げると、一年生たちは「わぁい!」と両手を挙げて外へと駆けていった。それと入れ違う形で、背後からぬっと両腕が伸びてくる。ぎゅうっと強く抱かれ、内緒話をするように耳元で「好きだ。」と囁かれる。途端に、こそばゆさと、もやもやが同居した心地になった僕は、隠すことなく、それはそれは深い溜息を一つ落とした。

「・・・・・・おい、そりゃねぇだろ」

 返事の代わりの溜息に、竹谷先輩がそう嘆く。けれど、嘆きたいのはこちらも同じだった。

 ここ最近、竹谷先輩はずっとこんな調子だった。飼育小屋、教室、廊下、原っぱのど真ん中、街道の途中。時、場所なんて構わずに、辺りの気配がなくなった隙を窺って、こうして愛の言葉を囁く。
 互いに懸想しあい、気持ちの確認も出来てるのだから、恋仲としてはきっと普通の行為なんだろうなぁと、ぼんやり思う。確かに照れくさくて居場所のない気持ちに困ってしまうけれど、こちらを想うまっすぐな言葉は嬉しいし、ふわふわと幸せな気持ちに包まれるのも確かだった。


 けれど、けれども。やっぱり、ものには限度があるでしょう!


 素直に白状すれば、最初は当然嬉しかった。人から煙たがれることはあっても、一直線に好意を向けられたことはない。竹谷先輩はそれをまっすぐに、見える形でありありと示してくれたのだから、嬉しくないはずがなかった。けれど、それも一週間続けば、逆にうんざりとした気持ちに取って代わった。


 愛の言葉とは、宝物のように大事に取っておくものだと僕は思う。普段はぴっちりと鍵を閉じているけれど、ここぞという時には鍵を外して、ありったけの気持ちを込めて使う。だからこそ、その言葉は特別で、一層大事で、愛おしくなるのだ。

 なのに、その思いに反比例するように、竹谷先輩は日に何度も何度も繰り返し言う。馬鹿の一つ覚えのように、好きだと言う。

 慣れとは恐ろしいもので、今では竹谷先輩の「好き」は、空気のように軽く、嘘みたいに薄っぺらな存在にとって変わってしまった。

 好かれてないなんてことはない。それだけは確信がもてる。けれど、本物のはずの気持ちを言葉にのせても、もう竹谷先輩の好きはちっとも僕には響かなかった。だからつい言ってしまったのだ。
「もう、やめにしませんか?」、と。





 先輩が嫌いになったとか、別れたくなったとかではない。やめたかったのは二人の関係ではなく、竹谷先輩の粘っこい求愛の方だった。

「こういうのはたまにだから、いいんです。」

 きっぱり本音を告げると、竹谷先輩は顔全体で「心外だ」と訴えてきた。それでも、怯むことなく、やめていただきたい。と、丁重にお断りを続けること一刻ほど。最終的に竹谷先輩は、「わかった。」と折れてくれた。すごく、渋々だったけれど。



 あれから一週間。もし時間を巻戻せるなら、あの日あの時の自分に猿轡をかませて、縛り上げたい気持ちでいっぱいになった。一時の衝動というわけではなかったけれど、なんであんなこと言ってしまったんだろう。と、体中が後悔の二文字に埋め尽くされていく。あの時は、それでいいと思ったのに。いっそ地中深くに減り込むんじゃないかという勢いで、僕はただただ項垂れるしかなかった。

「そんな心配しなくても、大丈夫だよ。酷い怪我じゃないんだから」

 眉尻を下げた保健委員長が、丸まった僕の背中を心配そうに見つめて、そう言った。
 善法寺先輩は、大丈夫。と言うけれど、真っ白い布団に横たわったまま、ぴくりとも動かない竹谷先輩の姿に、真冬の雪に当てられたように、血液がさあっと冷えていく感覚を味わうばかりだった。





「しばらく留守にする」

 だから、生き物たちの世話と、管理を頼む。と、お願いされたのは、三日前のことだった。

 進級をかけた演習に行く。夜通し二日はかかるから、一年達のことも頼むな、と竹谷先輩は言った。特に重たい空気は感じなかった。いつもみたいにカラリと笑って、近所の家に遊びに行くみたいに、軽い調子で言ったのだ。いってきます、と。なのに、三日後の今日、竹谷先輩はこめかみから血を流し、鉢屋先輩に負ぶわれて帰って来たのだ。

 先輩の頭に巻かれた藍色の頭巾は、赤黒く汚れていた。元の色を食い尽くす紅に、それこそ床板がはずれ、真っ逆さまに落ちるような心地だった。

「こいつが、とちりやがった」

 竹谷先輩を布団に転がした直後に、鉢屋先輩がそう言い捨てたのを僕は聞き逃さなかった。

 お目当ての巻物を奪った竹谷先輩は、退路の途中で腐りかけの屋根板を踏み外し、そのまま地面に真っ逆さまだったらしい。幸い高さもなかったし、運良く茂みがあったから大事にはならずにすんだけれど、むき出しの小枝でこめかみをさっくりとやられたようだった。

「やめなよ、ハチはよくやったじゃないか!」
「どこがだ!注意散漫してるから、あんな失態を冒したんだ!」
「そんな風に言うなよ!あれが僕でも、きっと同じだった!」
「・・・っ!」

 どこまでも竹谷先輩を庇い立てする不破先輩に、鉢屋先輩はそれ以上何も言わなかった。
 僕は、呼吸すら忘れていた。





「頭だったから、びっくりしたよね。でも最初の処置がよかったみたい。見た目ほどじゃなかったよ」

 全身の処置を終え、両手を清めた善法寺先輩が、ほっと息をつく。そのうち目を覚ますから。と僕の肩を叩くと、手桶を抱えて廊下へと消えてしまった。
 正直、そんなこと言われても、ちっとも安心できなかった。このまま一生目を覚まさないんじゃないかと、とにかく気が気じゃなくて、何度も何度も先輩の顔面に手をかざして、呼吸を確認してしまう。そのたびに、てのひらに触れる息を感じては、ぴんと詰めていた息を吐いた。

 あの日、「やめましょう。」と、提案した僕に噛み付いてきた竹谷先輩は、どこにもいない。静かに横たわる先輩は、まるで別人のようだと、どこか遠くでそう思った。

「・・・・・・竹谷、先輩、」

 僕は、全くわかってなかった。わかろうともしなかった。忍びがどれだけ危険で、怖くて、命を脅かすものだなのか。自分がいなくなるかもしれない恐怖も。言えなくなる不安も。伝えられなくなる、悲しみも。全部、全部、だ。

 今なら、先輩の気持ちが痛いほどよくわかる。なぜ、しつこいくらいに何度も好意を口にしたのか。したかったのか。

 だらりと伸びた、先輩の右手。いつもなら潰されるんじゃないかと錯覚するくらい強い力で握り返してくるのに、今は力なく僕の手の内で伸びている。
 僕よりも、ずっと大きくて、節の目立つ手。この掌で頭を撫ぜられるのが、何よりも好きだった。いたずら小僧みたく、にいっと歯を見せて笑って、両手を使って髷がくしゃりと歪むくらい撫で回す。後頭部に手を添えたまま、こつんと額を合わせる。そして、滅多に見せない落ち着いた笑みを浮かべて、そっと囁くのだ。・・・好きだ、と。

「せんぱい、」

 ちゃんと、聞いておけばよかった。あんな風に、突っぱねなければよかった。ぎこちなく囁く先輩の声を、もう一度聞きたいと思った。そして、もっともっと、ちゃんと気持ちを伝えておけばよかった。心の中が、墨を撒き散らしたように、真っ黒に染まる。

 僕らはいつ命を落としてもおかしくない場所に、足を踏み入れようとしてるのだから。今だけしか、言えないかもしれないのだから。もっと、ちゃんと、言えば良かった。聞けば良かった。心の中には、もう後悔しか残っていなかった。

 視界が歪む。だめだ、と思った瞬間に、それは一気に決壊した。
 つうっと、生温かいものが頬を伝う。雫が床板を濡らすのとほぼ同時に、溢れ出した僕の気持ちも零れ落ちた。

「・・・・・・好き、」

 です。が、声になる前に、手の中で伸びたままだった指が、ひくりと動くのを感じた。硬く閉じたままだった瞼が少しずつ開き、睫が僅かに揺れる。開いた唇が、まごへい。と形作ったのに気づき、大玉の雫がまた一つ、零れ落ちた。いつもの半分にも満たない力だったけれど、大好きなあの手の温度を感じ、信じてもいない神様に、「ありがとうございます。」と手を合わせるほどに嬉しかった。

「・・・・・・なに、泣いてんだか」

 しょうがないなあ。と、拾われた子犬のように眉を下げた竹谷先輩が、照れくさそうに口角を上げた。左手で頬を撫で上げられる。途端に、緩んだ暖かい空気が流れ込む。ぴんと張り詰めていた糸が、するする解けていくようだった。

 全くもう。誰のせいだと、思ってるんですか。全部全部、竹谷先輩が悪いんですよ。

 喉元で蠢いた可愛げのない台詞たちは、言葉になることなく、腹の底へと沈んでいった。かわりに、いつものお返しとばかりに、先輩の手を取る指に力を込める。嫌がらせのつもりで、力いっぱい握りんだのに、そんな僕の思惑とは裏腹に、先輩の表情はとろとろに甘く溶けていた。

「・・・・・・なあ。孫兵。さっきの、も一回、聞きたい」

 無理やりに笑って、先輩は言った。

「好きって、やつ」

 繋がった手のひらが熱かった。頼む。と、更に握りこまれる。けれど、痛みで力の入らないのか、ぎゅうっと握られたのに、ちっとも痛くなかった。大きな手。大好きな手。空いたままの左手を添えて、竹谷先輩の手を包み込んだ。
 滅多にみれない先輩のお願いに、心の奥がむず痒くなる。気持ちを形にするのは、不得手だった。気恥ずかしさだってある。でも、いつもして貰ってたように、今度は僕が言う番だと思った。ふっと息を吐いて、

「では、一つ、交換条件があります」

 ぼくも、聞きたいです。

 甘く溶ける眼差しを見れないまま紡いだ尻窄みの言葉に、「お安い御用だ。」と笑った竹谷先輩の声を、僕は一生忘れないと思った。










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2012/12/17



竹孫プチ記念アンソロさまに寄稿させていただきました!
ありがとうございました!




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