金曜日の夜。溜りに溜まった書類を片付けるために残業する気満々だった本日、何故か急に留三郎に呼び出された。

犬猿の中と称されることが多い腐れ縁のこいつに、こうやって一方的に呼び出されるときは、たいていろくなことがない。先月めでたく結納を済ませ、これから襲ってくる結婚式のあれこれでプライベートも、ついでに仕事もいっぱいいっぱいで余裕など欠片もない状態なのに、これ以上の面倒事はごめんである。

もちろん最初は無視を決め込んでいた。メールに返信もせず、ついでに着信もほったらかしにして、携帯を見る余裕などないと無言のアピールを続ける。けれど、向こうもどうしても譲れなかったらしい。最初は十分に一回の頻度だった着信が、定時を過ぎたあたりから一分間隔になり、うんざりしてしまった。


お前は俺のストーカーか!
拳骨付きで罵倒してやりたい。


こうなってくると、もうただの我慢比べだった。
留三郎の持ち込む厄介ごとと、このまま無駄に着信を残されて充電を消耗して仙蔵からの連絡に出れなかった時の報復。両方を天秤にかければ、あっけないほど簡単に答えは出てしまった。

前言撤回。仙蔵のご機嫌を損ねる方が一大事だった。

仕方なく携帯を開くと、リダイヤルを呼び出し留三郎に折り返しをする。三コールで繋がった電話相手に「用件を言え。」とストレートに尋ねると、やたら歯切れの悪い声で、「ちょっと出てこれないか?」と言われた。

これは本格的に面倒な話の予感がする。

げんなりしつつ、それでもこれ以上の着信攻撃は勘弁願いたいので、本日の残業予定を翌日の休日出勤へと変えると、留三郎の要求に素直に従った。






そうしてわざわざ駅の反対側にある居酒屋にやってきた文次郎は、目の前で項垂れる酔っ払いに深い深い溜息を吐いた。

すでに一杯ひっかけた後の留三郎は、見るからに面倒な酔っ払いだった。テーブルには空のグラスが二つと飲みかけの生ジョッキが一つ、それにお通しと刺身が少々。すきっ腹にアルコールばかり飲んでいたんだろう。どちらかと言えば酒の飲み方も知っていて、そこそこ強い方だというのに、今日ばかりはどうにも様子が違っていた。

やたら重っ苦しい話だったら、聞かなかったふりをして、とっとと帰ろう。
非人道的な考えを巡らせつつ、向かいの席に腰を落ち着けると、堅苦しい背広を脱いで、ついでにネクタイも緩める。対する留三郎はといえば、Tシャツにジーパンという社会人とは思えぬラフな格好だった。
設計事務所って、こんなに服装が緩いのか。スーツが絶対の己の職場とは天と地の差だった。

「で、なんの用なんだよ」

通りかかった店員を呼び止め、ビールを一つ頼むと、さっさと本題に入る。
溜まった仕事は明日に持ち越しになったのだから、どんどん問題を解決させて、早いところ自宅に帰ってしまいたい。

「…………タイミングがわかんなくて、」
「はぁ?」

意味が分からなくて「なんのだよ、」と刺身を突きつつ問えば、すごく言いづらそうに返ってきた返事は、結婚の二文字だった。

今回は果たしてどんな内容なのか。恐る恐るやってきてみれば、なんのことはない。ただの惚気かと安堵の息を吐く。
そういえば、留三郎と伊作がお付き合いを始めたのは、ちょうど四年前だったか。内定を貰ったのと同時に告白したと、仙蔵伝手に聞いた気がする。

「結婚を前提に付き合ってたんじゃねぇのかよ」

お互い将来の相手として意識した上でお付き合いを進めているのなら、タイミングも何もねぇだろ。何をそんなに悩む必要があるんだ。
呆れ半分になりつつ、届いたばかりのビールを流し込む。

「それはそうなんだけど……、だからこそ余計にタイミングがわかんねぇっつーか、きっかけがなさすぎるっつーか……、」

長すぎる春とはよく言ったもので、どうやら言い出すきっかけがつかめないらしい。
それが証拠に、「もう買ってあるんだ。」と留三郎が差し出してきたのは、ドルファーニのリングケースだった。その用意の良さに開いた口が塞がらない。

「おまっ、あとは言うだけじゃねぇか!」

勢いよく机を叩く。
給料一か月分が軽く飛んでいくそれは、けして安い買い物ではない。それなりの決意を持って、ここまで準備をしておいて、何をためらう必要があるのだろう。

こっちはその金額と路面店の敷居の高さに、何度も何度もくじけた挙句、結局なんの用意もないままプロポーズをし、仙蔵と二人で買いに行ったというのに!


首を捻ると、本当は去年の内にプロポーズするつもりだった、と留三郎がぽつぽつと本音を零し始めた。

大学を選ばず、看護学校に進んだ伊作は留三郎を含め、仲間内では一番早く社会人となった。
勤め出して三年、小さな事務所ではなかなか新規採用はないらしく、今年も留三郎は一番下っ端のままだという。社会人としても伊作より後輩で、会社でも後輩のままで、どちらの世界でもヒエラルキーの最下位にいる自分に伊作をしあわせに出来るのか、資格はあるのか、せめてもう少し給料が上がってからにするべきではないのか。考え出したらきりのないループにはまり、どうにも踏ん切りがつかなくなってしまったらしい。

まったく、馬鹿馬鹿しい。

「てめぇが一番ビビってんじゃねぇか。躊躇うくらいなら結婚チラつかせんな」
「…………」
「結婚はしようと思ってするんじゃねぇ。したいって思うからするんだよ」

そんな気持ちで伊作を縛っているなんて、迷惑も甚だしい。
バカタレ! と一喝すると、財布から万札を抜く。それをテーブルに叩きつけ、「釣りはいらねェ」と捨て台詞を吐くと、放心する留三郎を置き去りにして居酒屋を後にした。




* * *




文次郎が立ち去った後、しばらくその場から動けなかった。
テーブルに置き去りにされた一万円と、飲みかけのビールジョッキが網膜の上を滑っていく。

悔しいけれど、確かに文次郎の言うとおり、留三郎は結婚の二文字にビビっていた。
給料だってお世辞にもいいとは言えないし、その割には激務で午前様なんてザラな毎日だ。締め切り前となれば帰れないことだってある。おまけに、お堅い公務員を選んだ文次郎のような安定もない。そんな自分に伊作をしあわせに出来るのか。考えれば考えるほど踏ん切りがつかなくなってしまい、今に至る。

テーブルに置いたリングケースを引き寄せると、大事に大事に鞄へと仕舞う。

これを買ったのは、もう一年も前だ。なのに未だに言い出せないまま、ずるずると持ち歩いているなんて、確かにとんだ大馬鹿者だと思う。自分のことなのに、どこか他人のことのように、笑いが零れてしまった。

お互いに別々に暮らしているけれど、会えない時間を埋めるように、週末は半同棲のような中途半端な生活が続いている。伊作のすっぴんなんてもう数えきれないほど見たし、寝相の悪さも、意外と大雑把なところがあるのもわかっている。そして、そのすべてを受け入れる自信は十分にあった。

今すぐにでも、結婚しようと言えば、伊作はきっと頷いてくれるだろう。だからこそ、こんな宙ぶらりんな気持ちのままプロポーズなんて出来なかった。

「…………したいと思った時に、するもの、か……」

結婚を控えた男の言葉の重みが、漬物石のごとくずっしりと伸し掛かる。踏ん切りがつかないということは、やっぱり今はまだその時ではないということなんだろう。

その気がないわけじゃないのに、どうしてだ。

帰路につく足取りは鉛のように重かった。







気がつけば自宅まで目と鼻の先のところまで来ていた。通りの角から見える自宅の窓には、あったかな明かりが灯っている。多分伊作が来ているんだろう。その予想通り、扉に鍵はかかっていなかった。

「……ただいま、」
「おかえりなさーい。……って、ちょ、すごい飲んできたでしょ!」

お酒臭い! と、伊作が顔を顰める。
自分は分からなかったけれど、思っていたよりもずっと酔っぱらっていたらしい。うまく呂律は回らないし、伊作の話も右から左に流れて、ああ、とか、うん、とか、適当な相槌くらいしか打てなかった。

瞼が重い。
靴下とベルトだけ外すと、一直線にベッドへ向かう。せっかく一緒に過ごせる貴重な夜なのに申し訳ないという気持ちもあったけれど、それ以上にだるくて仕方なかった。
伊作もこちらの飲みすぎに気づいているのか、こちらが願うまでもなくミネラルウォーターを差し出してくれた。その優しさが、何故だか痛くて仕方なかった。







翌朝の目覚めは、近年稀にみるほど最悪なものだった。

ずきずきずきずき。二日酔い特有の痛みが、こめかみ辺りを襲う。

ずるずると引きずるようにしてキッチンへと赴くと、エプロンに身を包んだ伊作がそこにいた。おはよう、と朝のあいさつを交わし、促されるままテーブルに着くと「食べてね、」と笑顔付きで伊作は朝食の準備を進めていく。

正直、ご飯を食べるだけの元気はない。それより寝ていたい。横になりたい。そう思ったけれど、もちろん口には出せないまま、目の前にランチョンマットが敷かれてしまった。

あまり重いメニューじゃないといいなぁ、出来れば茶漬けくらいがいい。
そんな心配をよそに、伊作が差し出してきたのは、恐怖していた白米ではなく、何故か味噌汁と、朝の食卓には不釣り合いなスポーツドリンクだった。

「二日酔いにはお味噌汁がきくんだよ。本当はシジミとかあったらよかったんだけど、さすがにこの時間じゃ売ってないからねぇ。今日はこれで我慢して」
「…………」
「あと、水分補給もちゃんとして」

食べたらさっさと寝ること!
それだけ言うと、伊作はキッチンへと引っ込んでしまった。

週末にこうして寝起きを共にするようになってからだいぶ経つけれど、朝は苦手らしく、伊作が留三郎より早起きをして朝食を用意してくれたことは片手くらいしかない。寝起きに確認した目覚ましは七時で、普段だったら確実にベッドで丸くなっているような時間だ。

二日酔いで苦しむ自分のために、早起きをして、味噌汁を作ってくれて。たまの休日なのに、寝て過ごすことを許してくれる。そのことに、申し訳ない気持ちと、どこか嬉しく思っている気持ちが混じった感情が込み上げてくる。


椀を手に取り、豆腐としいたけ、それと大根が入っただけのシンプルなそれを一口啜る。やさしくて、どこかほっとする味だった。胃にあたたかさが落ちていくのと同時に、別の何かが身体の真ん中から広がっていく。じわりと涙が滲む。

いいなぁ、と唐突に思った。
伊作がいて、自分がいて、何気ない日常の中、お互いに支え、支えられて。

昨夜、文次郎の言っていた言葉を思い出す。しようとするのではなく、したいと思うもの。ああ、なるほど。昨日は理解できなかった言葉が、今は何となくわかるような気がする。きっとこれがその瞬間だ。

「…………伊作、」
「なにー?」
「……結婚、しよう」

年甲斐もなくじわりと滲んだ視界の先で、伊作が泣きそうな顔をしながら笑っている。

嬉しそうに涙を浮かべる伊作と、幸せな朝の光景を、留三郎は一生忘れないと思った。





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2013/09/27


忍フェス4無配より
ありがとうございました!