水曜日の午後五時半。
留三郎は女の子と二人乗りをして知らない土地へとペダルを漕ぎ続けている。

景色がコンクリートに覆われたものから、緑へと変わっていく。同時に寒さも酷くなってきて、後ろにいる善法寺が心配になる。電車で通っていると言う彼女は実に軽装だった。
少なくとも自分は体を動かしているものだから、手足はびりびりと痛んでも寒いとは思わない。

「寒くねぇ?」
「だ、大丈夫です。それより…」

重くてごめんなさい、と遠慮がちな声に笑みが零れる。二人分になったペダルの重みは多少感じるものの、野郎同士のそれと比べたらちっとも負荷を感じない。

「全然軽いって。もっと太った方が良くね?」
「えええ?BMI数値的にはちょっとやばいですよ。あ、BMIっていうのはね…」

そのくらいは知ってるよ、と思いつつ、嬉々とした声で語りだすものだからそのまま聞き入ってしまった。その後も延々と善法寺の保健講座が続き、気がつけは彼女の家は目と鼻の先と言うところまで来ていた。

「家の前まで送っちゃって平気?」

知らない男と一緒に帰ってきたら家族はきっと吃驚するだろう。彼女の足を思えば玄関先まで送ってあげたいけれど、偶然出会っただけの他校の男がそこまでしていいものかと悩んだ結果だ。彼女に問えば大丈夫と答えてくれた。共働きの両親はまだ戻ってきてないと言う情報付きで。


最初に声をかけた時は酷い拒絶を示していたのに、それもやんわりと揺るいでいった。何故あんなにも萎縮していたのか良くわからなかったのは、この手のタイプが周りにいなかったからだ。
中学時代は公立の普通校だったが、男子とつるんでばかりで女子とは必要事項くらいしか話したことがなかった。
女子と言えば…、と色白の幼馴染を思い出す。線の細いあの女は、人をからかい嘲笑う事を生きがいにしてるのかと思うくらい根性がひん曲がっていた。あの女と許婚という関係を結んでいるもう一人の幼馴染を思うと心の中で合掌したい気持ちに駆られる。…がんばれ。
今は工業系の男子校に通っているから、女と話す機会は年上の女教師か友達が人数合わせに誘ってくる合コンくらいしかない。合コンには良く誘われるが部活もあるので大概断っているけれど、偶に引きずられていけば香水の匂いを漂わせた女が甘い声を出している。お持ち帰りくらいしろよと揶揄する友達もいたが、付き合う気もないのにそんな事は出来ず、アドレス交換すらせずに終わっていた。
念の為に言っておくが、女が嫌いなわけじゃないし、色白女のトラウマがあるわけでもない。一応、年相応の興味も欲望もある。けれど今まで女に惹かれることも心がときめくことも一度だってなかったのだ。



善法寺の家は郊外の一軒家だった。
門の前に自転車を止めて、鞄と雑誌の入った紙袋を取り出すと玄関先まで運ぶ。ありがとうと彼女は微笑んだ。
初めて笑顔を見た。
不意打ちの笑顔に心臓が大きく跳ねた。
出会ってからの彼女は困ったような恐がっているような複雑な表情ばかりを浮かべていて、明らかに自分を恐がっているんだと直感的に感じていた。それでも怪我させた身としては放っておくことも出来ずに、半ば強引に自転車に乗せて送った。道中会話が途切れることはなかったが、背中にいた善法寺の表情はわからなかったし、沈黙が恐くて喋り続けていたのかもしれないと思っていたのに。

ふわりとした笑みを浮かべる彼女から視線を外せなかった。
善法寺は可愛いと思う。最初に見たときからそうは思っていたがそれはあくまでも一般論の話で、留三郎は今まさに目の前にいる彼女の笑顔に落ちたのだ。栗色の髪の毛はふわふわしているし、猫目がちな大きな瞳に、女の子特有の曲線。合コンで会うような女と違って控えめな化粧はすごく好感が持てた。そしてこの笑顔は反則だろう。
可愛い、どうしようもなく可愛い。

こんなチャンスは滅多にないかもしれない。
女子の制服なんて詳しくないからどこの高校かなんて良くわからないし、電車通学の彼女と自転車で通う自分が会う機会なんてもうないだろう。せめてメアドくらいと思い、ポケットに携帯に手を伸ばした時。

「ありがとう、気をつけて帰ってね。おやすみなさい」

その言葉だけ残して彼女は扉の向こうへと消えていった。




今日ほど自分が情けないと思ったことはない。
口を開けば出るのは溜息ばかりで、どうしようもない気持ちを抱えつつペダルを漕ぐ。一人分軽くなったはずなのに、なぜかすごく重い気がした。
笑顔だけじゃない、優しい子だったなぁと想い耽る。自分だって怪我をしていたのに体の心配をしてくれた。道すがら「大丈夫?」と何度も気に掛けてくれた。帰り際に「気をつけて」と身を案じてくれた。それは彼女にとっては普通や当たり前のことかもしれないけれど、留三郎の心には深く沁みたのだ。
でも、きっと、もう会う事はない。
締めつけられたように心が痛い。どんどん冷えていって、走っても走っても一向に温まらなかった。



景色が見慣れたものに変わっていく。冷え切った気温にコンクリート街が酷く冷たいものに感じた。
駅前は遠回りになるので、手前で裏道に入る。正面の公園を突っ切れば家は目と鼻の先だった。
公園の手前でよく知った後姿が目に飛び込んでくる。

「仙蔵!」

艶のある長い髪を靡かせて振り返った幼馴染は死にそうなくらいに白かった。

「こんな時間にお出かけとは珍しいな」
「牛乳が切れていたんでな。そこのコンビニまで行ってきた」
「親は何もいわねぇのか?」

これでも仙蔵は箱入り娘だ。
仙蔵の母親の実家は御立派な旧家で、一人娘の仙蔵は目に入れても痛くないといった風に育てられたことを知っている。道を挟んだ斜め先にある仙蔵の住まう家は現代風の造りだが、道場があると連れてかれた祖父母の家は、大きな塀に囲まれた見事な日本家屋だった。テレビの中でしか見たことのないようなそれに度肝を抜かれたのは言うまでもない。
中学時代は同じ剣道部だった。男女混合で練習を行う中、仙蔵は男子顔負けの強さを誇っていて、中体連では中二の時は惜しくも県大止まりだったが、中学最後の夏には全国まで行ったくらいの腕前だった。昇段審査だってあっさりと一発合格している。二段所持だ。なのに高校ではあっさりと辞めてしまった。もったいないと思ったのは俺だけではないはずだ。
何故だと聞けば、帰宅時間が遅くなって両親が心配するんだと表情一つ変えずに言った。ご大層なこった。
なのにこの薄暗い中をうろうろしてるとは。過保護な両親は何も言わなかったんだろうか。

「なぁに大丈夫、黙って出てきたからばれないさ」

悪びれずにいう仙蔵に肩の力が抜けた。
家も斜向かいなのでとりあえず送ることにする。どうせ一緒の道のりだ。
貸せ、と牛乳の入ったビニール袋を奪うと自転車の籠に突っ込む。自転車を引きずって仙蔵の隣を歩いた。

「デートみたいだと思わないか?」

なぁ留三郎、と仙蔵が口角を上げる。
仙蔵のこれは冗談だとわかっている。こんな性質の悪い冗談を留三郎に向かってなら言えるのに、肝心の文次郎相手では全く言えないのだから面白い。

「文次郎が見たら卒倒するな」

からかってやるつもりで仙蔵を見れば訝しげに眉を顰めていた。
やばい、地雷踏んだか。

「悪い」
「いや、気にしてないさ」

仙蔵と文次郎の間に何か変化があったのはわかっていた。纏う空気が微妙に変わったのだ。けれど表向きは中学時代と変わらない態度を取っているし、それぞれ別の進路を選んだため留三郎には何があったのかなんてわからない。詳しい事情なんて全く知らなかった。
幼馴染で、許婚で。そんなものがなくたって仙蔵は文次郎が好きで好きで堪らないんだろう。
当たり前のように近くにいる文次郎と仙蔵の関係が羨ましかった。
もう二度と会えないであろう栗色の髪の彼女を想い傷心に浸る。知ってるのは名前と自宅だけだった。


公園を抜けると見慣れた屋根が見えた。
仙蔵の家の前で自転車を止めると籠の中身を渡す。

「これ」
「ああ、すまなかったな」

受け取った仙蔵が、何か付いてると袋の底に張り付いた紙切れを差し出してきたが、それに全く覚えがない。そもそもショルダー型のバックを愛用しているから、鞄を籠に詰めることは滅多になかった。
そういえば、と善法寺を思い出す。
彼女の鞄を入れてたんだっけ。
たかが紙切れ。されど紙切れ。もしかしたら彼女に関する何かがあるかもしれないと邪な気持ちで仙蔵の手からそれを奪い取った。拙いかな、と思いつつ開いた紙には地図が描かれてた。カラフルな色で描かれたそれがあの本屋までのものだったので、「やっぱりあの子のか」と納得したけれど、地図では何の手がかりにもならない。
深く息を吐くと仙蔵が覗き込んできた。

「なんだ、地図か」

面白くないと小声で言ったのを聞き逃さなかった。
それこそこっちの台詞だっつーの!

「こんな近所の地図、どうしたんだ?」
「あー、多分、本屋の前でぶつかった女の落としもんだな」

綺麗な色で描かれたそれはどう見たって男のものではない。
どうせばれて突付かれるならと、素直に留三郎は白状した。

視線を滑らせると地図の下に十一桁の数字が書かれていた。
きっちりしたその文字は何故だか何処かで見たことがあるような気がする。目を凝らして十一桁を追うとやっぱり見覚えのある数字に思えてきて、鞄の中から携帯を引っ張り出した。アドレス帳を開いてお目当ての人物を探す。仙蔵も思うところがあったみたいで携帯を開いていた。液晶に映る数字と紙切れに書かれた目で何度も確認する。
何度見ても、同じ数字の羅列だ。
なんで?なんで?どうして善法寺がこれを持っていたんだ?
疑問は浮かべども答えは出ない。

横に目をやると青筋を立てた仙蔵が立っていた。

「…っ彼奴め……!」

伝わってくる怒気に背筋が凍る思いだ。
メチャクチャ怒ってやがる!怖い、怖い!すっげぇ怖い!つーか、理不尽な思いをしたのはお前だけじゃない、俺もだ!

紙に書かれた十一桁の数字は紛れもなく文次郎のものだった。




ロマンチック・ラブ・イデオロギー






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2010/9/13




title:確かに恋だった



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