仙蔵は怒っていた。かつてないくらいに怒っていた。

平素では例えどんなに腹立たしい出来事が起ころうとも、それを臆面もなく曝け出すようなことはしない。そんなみっともないこと絶対にしたくない。無様は晒さない。それは偏に仙蔵のプライドからだった。
けれど、今は違った。横に立つ留三郎などお構いなしといった風に怒りを露にしている。

原因は留三郎の持っていた紙切れだ。元の持ち主は女で、そこには何故か文次郎の携帯番号が書かれていた。覚えのある筆跡は彼のもので、つまりそれは文次郎自身が女に書いて渡したということになる。仙蔵を怒らせるにはそれだけで十分な事実だった。
私には教えなかったくせに、他の女には教えるのか。そもそもこの女とはいったいどういう関係なのだ!
腸が煮えくり返るような思いを抱えて、携帯で問題の人物を呼び出す。無機質なコール音だけが返ってきて仙蔵の苛立ちを更に増長させた。

「おい、仙蔵。やめとけって」
「うるさい!これは私と文次郎の問題だ!引っ込んでろ!」

静止する留三郎を怒鳴りつけて黙らせる。
仙蔵と文次郎は恋人ではなかった。親が決めた許婚だ。両想いというわけではないし、文次郎にはいざとなったら白紙に戻すといわれている。けれど、まだ白紙になったわけではない。向こうがどう考えてるかは知らないが仙蔵は文次郎のことを想っているし婚約も今だ継続中だ。破棄をしていない以上、仙蔵にだって怒る権利くらいいくらだってある。

コールが切れて電子的な音声が流れる。
ちっ、留守電になった。
もう一度かけてやろうと再び携帯を開いたところで留三郎に制止される。手首を掴まれて携帯まで取り上げられた。

「もうやめろ」
「嫌だ」
「これ以上やったらただの嫌がらせだぞ!?」

留三郎の言い分も理解していた。
許婚と言う呪縛はあっても気持ちは伝えたことなどない。幼馴染の延長に存在する二人の関係は平行線で、例え文次郎に好きな女が出来ようとも仙蔵に止める権利がないことも重々承知していた。
けれど、これはあんまりだ。
文次郎は仙蔵に対しては好きな奴が出来たら言えといった。なのに文次郎はそれすら口にしないのか。口にされても傷つくことは容易に想像できるが、こんな心構えもなってないような状態で知りたくなかった。

「……ふっ…」

どうしようもなくどす黒い感情が押し寄せてきて、溢れる涙が止まらない。
この紙の持ち主はどんな女なのか。文次郎と同じ学校なのか。可愛い子なのだろうか。どんな声色でどんな姿なのか。
見もしない女に酷く嫉妬した。墨のついた筆で塗りつぶしたように心の中がどんどんと真っ黒になっていく。醜い感情に翻弄されて怖くて悲しくて苦しくて堪らなかった。

留三郎に肩を抱かれて、仙蔵はただただ泣いた。グルグル巡る疑問と絶望が、涙と一緒に流れてしまえばいいのに。
胸に顔を押し付けて咽び泣けば、留三郎の腕が背中を擦る。その優しさが痛くてまた涙が溢れた。

買ったばかりの牛乳パックはぐしゃりと音を立てて地面に転がった。




「そこで何してんだ?」

どのくらいそうしていたのか。
声の主に気づき顔を上げると文次郎がそこにいた。走ってきたのか肩で息をしている。文次郎の眉は訝しげに顰められていて嫌悪感を露にしていた。
仙蔵はばれないように顔を背けて涙を拭ったが、目聡く文次郎に見つかってしまった。文次郎は留三郎を睨みつけると声を荒げた。

「何泣かせてんだ!」
「俺のせいじゃねーよ!」
「うっせぇ!仙蔵が泣いてんじゃねぇか!」

文次郎と留三郎は昔から喧嘩が絶えない。人生の殆どを同じように過ごして来たのに、何故だか顔を合わせれば互いに喧嘩腰でそれは仙蔵が呆れるほどだった。特に今日は殊更酷い。
未だに留三郎の腕の中にいた事に気が付いて退くと留三郎が「悪い」と謝ってきた。
留三郎はちっとも悪くないのに。悪いのは全部自分で、原因は怒鳴っているこの無骨な男だ。

「留三郎は、悪くないんだ」

すっかり巻き添えを食ってしまった友人に助け舟を出す。
留三郎は馬鹿なことをした仙蔵を止めただけだ。事を荒立てたくないのに、それが気に食わないのか文次郎がやけに突っかかってくる。

「仙蔵は黙ってろ!」
「本当に違うんだ」

今にも殴りかかりそうな勢いの文次郎にぎょっとして、慌てて留三郎の前に立つ。振りかぶったところで思い留まってくれて、安堵の息を吐いた。

「留三郎は、その、私を慰めていただけだ…ちょっと、色々あってな」

何が、とは言えなかった。
全てを聞いて問い詰めたいと思っていたのに、一度冷えた頭は酷く保守的だ。聞いてしまえば元の関係に戻れないような気がして、足が縫い付けられたかのように動かなかったし、言葉だって出なかった。
沈黙を破ったのは留三郎だ。

「俺は帰るな」
「…すまなかったな」
「いーってことよ」

何かあったら電話しろ、と笑った彼は転がったままのビニール袋を拾い上げ、中に携帯を放ると仙蔵の手にかける。そして仙蔵の掌には紙切れを乗せた。それは怒りの原因になったあれだ。

「ちゃんとしたほうがいい」

婚約してんだから、と文次郎には聞こえないように耳打ちする。
傍目に二人の関係はどう見えているのか。実際には正式な婚約などしていない。親に言われてそう言うものだと仕向けられた二人の間に、そんな甘い響きは存在しなかった。じわりと滲んだ涙をどうにか堪えて、留三郎に礼を告げた。
留三郎は斜向かいの明るい灯が燈った扉の中へ消えていった。手の中に残る紙をぐっと握って今度は文次郎と対峙する。

「話が、ある」

そういって文次郎を自室へと引き込んだ。




寒空ですっかり冷えた体に室内の空気がじんわりと沁みる。
廊下からリビングで食事の準備を進めていた母親に、文次郎と話をするからと断りを入れた。遅くにすみません、と文次郎が申し訳なさそうに挨拶をするのを横目にさっさと二階へと上がった。

部屋に入ると急いで暖房をつけた。文次郎は何も言わずにカーペットの上に胡坐をかく。仙蔵もエアコンのリモコンを定位置に置くと文次郎の前に座った。

こうして部屋に文次郎を招いたのはいつ以来だったか。少なくともこの恋心を自覚する前だったような気がする。幼馴染の気軽さから小学生の頃はよく互いの家を行き来していたと思う。夏休みにこの部屋でスイカを食べた事だってあったし、雑魚寝だってしたことがあった。
あの頃は置いてなかった大きな姿見や、カラーボックスの上に置かれた化粧品、壁に掛けられた制服。同じ年頃の女の子なら誰でも持っているであろうそれらが並ぶこの部屋は、文次郎の目にどう映っているのだろうか。小さいようで確実に変わっていた性に文次郎は気づいてるんだろうか。無邪気に笑っていた頃と今は違う。変わってしまった。心も体もどんどん変化して溝を深くしている気がする。

久しぶりに顔をあわせたのにお互いが気まずく思っているのか沈黙ばかりが続く。重苦しい空気に耐えられそうもなかった。
先に口を開いたのは文次郎のほうだった。

「電話」
「……は?」
「電話しただろう。だから、急いで帰ってきたんだ」

そういう文次郎の髪は酷く乱れていて、制服にはボタンが掛けられていなかった。そういえば息も乱れていた。
文次郎の言葉に目頭が熱くなる。優しくしないで欲しい、優しくして欲しい。相反する二つの心に心臓がぎゅうぎゅうなって苦しかった。

「部活の後に気が付いて、何度も掛けなおしたんだ。でもちっとも出ねぇから」

そう言われて留三郎に携帯を取り上げられたことを思い出した。そのまま持ってきてしまった牛乳の入ったビニール袋を漁ると携帯がチカチカと点滅していた。袋の中に手を突っ込んで履歴を確認する。不在着信が五件、メールが三件入っていた。着信もメールも全て文次郎からで、不謹慎にも心が跳ねて涙が一粒落ちた。

「何で泣くんだよ!」
「…なんでだろうな」

手の甲で涙を拭う。
こんなこと、終わりにしないといけない。じゃないと、何回でも同じ事を繰り返してしまいそうで怖かった。
女の事も問いただして、好きだと言おう。名ばかりの婚約者ではなく、恋人になりたいんだと言おう。その先に待つ結末が悲しいものだったとしても、焼けるような気持ちを抱えたままでは前に進めない気がした。

これ、と言って紙切れを差し出す。
思うところがあったらしい文次郎が、ああ、と声を上げる。

「留三郎が持ってた」
「は?何でだ?これは善法寺にやった地図だぞ?」

首を傾げる文次郎を一瞥する。
紙の女は善法寺と言うのか。
顔も知らない名前だけの女に胸焼けがした。心がちりちりと焼けてどうにかなってしまいそうだった。

「本屋でぶつかった時に拾ったらしい。詳しいことは知らん」
「そうか。一応個人情報だからな」

助かったと紙を拾い上げる文次郎に、カッと目の前が赤くなった。
ちがう、そうじゃない。

「単刀直入に聞く。善法寺とか言う女とは、どういう関係だ」
「はぁ?」
「いいから答えろ!」

思いのほかヒステリックな声が上がって、自分でもしまったと思った。こんな言い方がしたかったんじゃない。なのに口から出るのは可愛げの欠片もない口調ばかりで眩暈を覚えた。
目前の文次郎は困ったように表情を歪めている。

「ただのクラスメイトだが」
「らしくないな。ただの女友達にお前が番号を教えるなどとは」
「土地勘ねーのに本屋行きたいっつーからな。なんかあったら困るだろ」

聞けば善法寺は危なっかしいところがある女らしい。駅の近くの大型書店を教えたはいいが、近隣にある男子校生に絡まれり迷子になられては困ると教えたらしい。留三郎も「ぶつかってきた女子」と表現してたくらいだから、相当鈍くさい女なんだろうと思う。だから優しくしたくなるのかもしれない。
嫌な想像をしてまた気分が悪くなる。
文次郎はただのクラスメイトだとはっきり言った。だからまだ大丈夫と、必死に揺れる心に言い聞かせた。

「それより、仙蔵はどうなんだ」
「っ、なにがだ?」

不意打ちは卑怯だ。僅かに声が上擦ってしまい、内心舌打ちをする。それでいていつになく真剣な顔でこちらを覗いてくるのだから居た堪れない。
つい目が泳いでしまい、ますます居心地が悪くなった。

「留三郎だ」

意外な名前が挙がって、とめさぶろう?と鸚鵡返しをしてしまう。
今更、留三郎がどうしたと言うのだ。文次郎の意図が読めなくて瞬きを何度も繰り返す。文次郎はどちらかというとわかりやすい男なのに、今は何故か言わんとすることが掴めない。こんなことは中学三年の冬以来だった。

「文次郎、言いたいことがさっぱりわからないんだが…」
「…無かった事に、してくれないか?」

固まった。思考も動きも一気に停止した。

無しにするというのは、婚約か。
聞きたくなかった言葉が降って湧いて、血がどんどん下がっていくのを実感する。文次郎の目を見たら、声を出したら。それこそ我を忘れて泣き出してしまいそうで、膝の上に置いた手を力いっぱい握り締めて必死に耐えた。怖くて文次郎と目すら合わせられない。俯いたまま血の気の引く自分の手だけをただ見つめていた。

「勝手な言い分だって言うのはわかってる。でももう限界なんだ」

まずい、と思ったときには涙が零れていた。
元より泣く事が殆どなかったのに今日は泣いてばかりで、善法寺のことを知った瞬間から仙蔵の涙腺は崩壊しっぱなしだった。頬を伝う涙が少し温かくて、これが現実なんだと痛いくらいに思い知った。
泣き顔なんてみっともなくて見せたくない。両の手で顔を覆って何度も指で涙を拭うのに溢れ出した涙は一向に止まりそうもなかった。

「…そんなに嫌か」

文次郎の言葉に肩が震える。
情けない声色になりそうで、それがすごく嫌で、無言で頭を縦に振った。顔が見れなくてもいつになく神妙な声色で本気なんだろうと思う。
形だけの許婚なんていつかは終わってしまう。そのくらい分かっていたはずなのに。
突きつけられた現実が想像以上に辛くて堪えて、全然覚悟ができていなかったんだと思い知った。
文次郎が困っている。止まれ!泣き止め!
必死に言い聞かせるのに決壊したダムのように涙は一向に止まない。

理性と本能の間で格闘していると、消え入りそうな声で文次郎が呟いた。

「お前が…他の男といるのは、耐えられねぇんだ」
「………、は?」

…いま、なんていった?
耳に入ってきた言葉がうまく理解できなくて、思わず顔を上げてしまう。双眸に映った文次郎は困ったように眉を八の字にしていて、仙蔵は言葉の意味を必死になって考えた。
胡坐を崩した文次郎が距離を詰めてきて、不意に手を取られた。自分のものとは違う温かな体温を感じ、下がっていた血が顔に集まってくるのがわかる。
顔が、熱い。
握られた手に力が込められて指が白くなっていく。血がうまく通っていないはずなのに心拍数を増した体に、顔も手もどんどん赤くなっていくのが自分でもわかった。

「…仙蔵の意思を尊重したかったのに、悪い」

そして初めて、文次郎の気持ちを知った。



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文次郎が「許婚がいる」と聞いたのはまだ幼い頃だった。いつになく張り詰めた空気を放つ祖父母の元に行くと唐突に告げられたのだ。許婚なんて言葉が理解できる歳じゃなかったが、傍にいた両親に「将来の結婚相手のことだ」と言われなんとなく納得した。そして親の意志で勝手に決められた結婚相手が仙蔵だと知ったときは純粋に嬉しく思った。
ちょっとづつ年齢を重ねるうちに言葉に含まれる意味と責任を受け止められるようになっていった。どんどん綺麗になっていく仙蔵に焦りを感じるようになったのも、仙蔵にふさわしい男にと思い描き始めたのもこの頃からだった。親に反抗する意思など一度も見せたことがない仙蔵がこの婚約に不服を漏らすとは思えなかったけれど、このまま恋も知らずに人形のように嫁ぐ仙蔵を思うと心が痛んだ。親を言い訳にして、そんな関係にはなりたくなかった。そこに仙蔵の意思が欲しかった。
だからあの冬に言ったのだ。仙蔵をちゃんと手放して、自由にしてやろうと思った。それでもその場で直ぐ関係を清算しなかったのはちょっとでも望みが欲しいと願った浅ましい自分の心からだった。

なのに我慢できなかった。
ほんの少し前に見てしまった仙蔵と留三郎に。

仙蔵の愚痴に昼夜問わず突き合わされたのは一回二回ではない。深夜でも構わずかかってくる電話に自分だけは特別なのかもしれないと子供じみた優越感に浸ったりした。部活中に残された不在着信に一向に繋がらない電話。いつもならば簡単に繋がる電波が途切れて、何かあったのかと不安になって急いで帰った。そして見てしまったのだ。留三郎の腕の中で泣いている仙蔵を。よりにもよって留三郎、それが文次郎の理性をどんどん失わせていった。
あんな風に縋って泣いている仙蔵なんて見た事がなかった。自分よりも遥かに仙蔵に近づいている留三郎に苛立ってしょうがなかった。頭に血が上ってどうしようもなかった。このまま何もせずに他の男の手に渡ってしまうくらいなら、卑怯と言われても縛り付けたいと思った。
どう思われてもいいから傍に居たいと。



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「すまん」


一頻り話を終えた文次郎はばつが悪そうにぶっきらぼうな言葉を吐く。

文次郎の心の内を知って仙蔵の心臓が五月蝿いくらい跳ねた。
こんな事態は想定していなかった。
どんどん早くなる脈に呼吸に、このまま過呼吸でも起こすんじゃないかと錯覚すら覚える。どう応えていいのかわからなくて仙蔵は濡れた頬を真っ赤にして身を縮めた。

「…謝るくらいなら言うな」

絞り出した声は、精一杯の強がりだった。
我慢できなくなるくらいなら最初からあんな事言うな。手放したりするな。突き放すような真似をするな。大体、最初からその気がなかったらあの冬の日にとっくに三行半を突きつけてる。
言いたいことはいくらでもあるのに、心の中で溶けてしまって言葉になることはなかった。
握られた手に力を込めて、逆に握り返してやる。驚いた風に文次郎が見つめてくるのがわかった、だから。

「好きだ」

ほら、早く返事をしろ。私はもう待たないのだから。




三分以内に返事を






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2010/9/14


すっかり当て馬になってしまった留三郎と伊作に合掌。これも不運の一つです。



title:確かに恋だった



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