「今日は、泊まってくから」

だから帰らないとだけ伝えると、向こう側にいた友人は、「どこにいるんだ、誰といるのかちゃんと言え!」と声を荒げ始めた。沈着冷静なあいつにしては珍しいなぁ。妙に冷えた頭でそんなことを思った。



家賃も光熱費も安く上がるから。と、高校時代の友人二人から誘われたのは一年前のことだった。
ちょうどアパートの契約更新日が間近に迫っていて、もっと大学に近くて安いところに移るか、妥協して更新するか悩んでいた時期で、「折半すれば家賃もろもろにかかる費用は三分の一ですむし、家事の負担だって少なくなるぞ。」という友人からの甘い誘いは実に魅力的だった。提示された立地も、条件も、許容範囲内で、迷うことなく二つ返事でオッケーをだしたのだ。

共同生活というのは、難しいと思う。実際、家族とは違う赤の他人と一つ屋根の下、寝食を共にするのだから、大変じゃないほうがおかしいのだけれど。

一緒に住みだした時、共同生活のルールと称していくつかの約束事をした。それは、本当に些細なことで、たとえば、「冷蔵庫に置くものには名前を書く。」とか「洗濯機に服を入れっぱなしにするな。すぐに干せ。」とか「共有空間の掃除は当番制。」とか、生活やモラルにかかわる細かいけれど些細なアレコレで。けれど、たまにそれを破ってしまったとしても、「しょうがないやつだ。」の一言とお詫びにデザート程度で済まされたりとかするくらい、あってないような、そんな取り決めだった。そんな中で、たった一つ、これだけは絶対に守れと、念を押されたルールがあった。それが、「無断外泊はしない」だった。

「連絡したんだから、ルールは破ってないだろ!」

誰とどこにいるなんて、そんなことまで根掘り葉掘り聞かれたくない。小学生じゃないんだから、ほっといてくれ!

感情任せに怒鳴る。電話の向こうにいる仙蔵は、納得できない様子だったけれど、これ以上のお小言はごめんだったので、話し半ばで勝手に通話を終了させた。

静かになった携帯を、サイレントにして、バッグの奥底に沈める。
本当は電源ごと切ってしまいたかったけれど、まったく繋がらなくなったそれに過剰反応されて、実家にでも連絡がいったらさすがに困る。それこそ面倒くさいことになるのは目に見えているから、そこは妥協だ。きっと、明日には着信履歴が全部、仙蔵で埋まるんだろうなあ。なんて、思った矢先に着信ランプが光ったけれど、見ない振りをして、バッグごと部屋の片隅に追いやった。

「……小平太、」

振り返ると、困ったように眉尻を下げた長次の双眸とぶつかった。その瞳は困惑の色が滲んでいる。ここは長次の家なのに、来訪者の自分より、家主本人がどうしていいのかわからない様子で、キッチンと部屋との境目あたりで居場所なさげにしているのがなんだかおかしかった。






長次との出会いは、去年の冬。大学のそばにある図書館だった。

普段だったら死んでも寄りつかない場所だったけれど、今回ばかりは単位がかかってる。落とすわけにはいかない。はあ、と、やる気のない溜息をついて、五日後が提出期限のレポートのために向かったそこで、初めて見かけたのが最初だった。

不思議な男だった。
テーブルの半分以上を埋め尽くすほど本を積み上げて、それを黙々と片っ端から読み上げていく。読書というよりも速読に近い速度で片づけられてく本の山に、授業でもなければ文字など追わない小平太は、別次元の人間だなあと思った。

次に会ったのは、その翌日。駅前の本屋だった。これまた課題用の資料を渋々買いに出向いたそこに、あの男がいたのだ。
従業員用の青いエプロンをしてカウンターのあたりで何やら作業をしている。何をしてるんだろう。考えるよりも早く、足はカウンターへ向いていた。

一目惚れとか、そういう類とは違うと思う。ときめきがあったとか、ビビッと感じたとか、週刊誌の見出しになるような特別さを感じたわけじゃない。単に気になった。ただそれだけだった。けれど、そこからすべてが始まった。

最初に声をかけてきたのは、意外なことに長次の方だった。

「なにか、探してるのか?」

カウンター前でうろうろしていた小平太を、そう呼びとめたのだ。まさか「お前を見てた。」なんて言えるわけなくて、資料用に探していた本をいくつか挙げる。実のところ、目星はとっくについていて、更に言ってしまえば、この書店のどのあたりの棚に並んでいるかも仙蔵からリサーチ済みだった。というか、いつまでも課題に手を付けない小平太に痺れを切らした仙蔵と伊作が、わざわざ調べて探してくれたんだけど。(そこまでしてくれるなら、買っておいてくれたらよかったのに、ってバカ正直に言ったら殴られた。)

「……それなら、この間の図書館にあったと思う、」
「え?」
「昨日、来てただろう?」

その言葉に、顔に火が付いたみたいに熱くなる。

確かに、図書館にいた。それに間違いは、ない。けれど、目の前にいる男と同じ空間にいたというだけの話で、特別会話を交わしたわけじゃない。こっちは本のタワーを作り上げる男が妙に印象的で覚えていたけれど、自分はといえば、たくさんの利用者の、たった一部。ちょっとの時間、同じ場所にいた。ただそれだけの存在だったのに、向こうがこっちを覚えていたことに、胸のあたりがきゅうっとして、言葉がなくなってしまった。湧き上がってくる動揺が隠せない。

「けど、あそこ広くてさ。どこになにがあるのか、全然わかんない」

そうだ。先日行った時も、結局目当ての資料がどこに置かれてるのかさっぱりだった。
図書館はおろか、学校の図書室さえほとんど使ったことのない自分にとっては、本がどう振り分けてるのか、皆目見当もつかなかった。その上、あの蔵書数である。わからないを通り越して、迷路にでもいるような心地だった。

バカ丸出しで、いたたまれない気持ちでいっぱいになる。
本の虫だったこの男は、きっと頭がいいんだろう。そう思うと、とてもじゃないけれど恥ずかしくて、猛ダッシュで逃げ出したくなった。

「……なら、一緒に行くか」
「え……、」
「明日でいいなら、一緒に探してやる」

これが、最初のきっかけだった。




すごく年上に見えた長次だけれど、意外なことに同い年だった。とっくに大人で、世知辛い社会の波に揉まれてるもんだと思ってたから、びっくりして持っていたドリンクを道端にぶちまけてしまった。スタバのキャラメルフラペチーノ、半分も飲んでなかったのに。拗ねる子供みたいに唇を尖らせる。
長次はふっと息をつくと、大きな手のひらで犬にするみたいに頭をぐしゃっと撫でて。

「こっちだって、年下だと思ってた」
「ひっど!」
「どっちがだ」

そう言って差し出されたカップ。受けとったその中身は紅茶だった。コーヒーが売りのお店なのにいつもそれしか頼まない長次が不思議でたまらなかったけれど、そんなこと聞いたらもう二度とこうして一緒に寄り道できなくなりそうで、言葉を飲み込むようにそれを一口啜った。

大学も近かった。最寄駅こそ違えど、降りる駅は一緒で、季節が半分回るころには、一緒に帰るようになっていた。
駅前のスタバで待ち合わせて、ちょっとお茶をしてから駅に向かう。イートインしたり、テイクアウトしてのんびり公園のベンチで過ごすこともあった。恋人みたいだなあと勘違いしてしまいそうになるような、甘い時間。けれど、二人の関係はあくまでも友達で、それを物足りなく感じるのには時間がかからなかった。
一緒にいる時間はすごく楽しい。楽しいけれど、長次が遠い。もっと知りたい。知ってほしい。大盛りのごちそうを貰ってるのに、お腹いっぱいにならない。そんな感覚が不思議でたまらなかった。



あれは夏の日だった。いつも通り公園のベンチで休んでいて、さあ、帰るか、というタイミングで、長次が切り出した。

「今日が最後だな、」
長次が言った言葉の意味が分からなくて、「え?」と聞きかえすと、「明日から、夏休みだから。」と言われた。そういえば、試験の入りが自分よりも少し早かったことを思い出す。こちらは明日も明後日も面倒な試験が待っているというのに。

「じゃあ、明日からは一人で帰るのかあ、」

ぽつりとつぶやいた言葉が、水面に広がる波紋みたいに、何度も何度も打ち寄せてくる。自分で自覚していた分より、ずっとショックだったらしい。のどが震えて、こめかみのあたりがツンと痛くなる。あ、と思った時には、涙が落ちていた。目の前にいた長次もびっくりしていたけれど、それ以上に驚いたのは自分自身だった。

なんで、泣いてるんだろう。

自分のことなのに、自分のことじゃないみたいに、どうして? が、グルグル回る。茶色い地面にできた染みは大きくなる一方で、涙は一向に止まらない。ごまかすように「目に、ゴミ入った。」と、慌てて顔を伏せるのを、長次の手が拒んだ。

手首をつかまれて、無理矢理に長次の方へ向かされる。
いやだ、こんな泣き顔見られたくない。なんで泣いてるのかもわからないのに。
こんな情けないとこ見られたくなくて、必死にもがく。なのに、長次はそれを許してくれなかった。

突然、ぐいっと引き寄せられた。あっという間に真っ黒に染まった視界。自分のものではない体温。耳の後ろと、背中に力強さを感じて、ああ、抱きしめられてるんだ、と理解した。

「…………好きだ」

耳元に打ち込められた言葉に、息が止まりそうになった。

物足りないけれど、楽しくて、楽しみな時間。待ち合わせ前の跳ねるような気持ち。駅で長次の乗る電車を見送るときの、締め付けられるような苦しさ。一緒にいたい、離れたくない。いつも不思議に感じていた色んな思いが一気に湧き上がってきて、点と点だった気持ちが、一本の線で繋がれる。持て余していた感情に、言葉がつく。そうか、この気持ちは。

「……わたしも、好き、だ」

言葉と一緒に、また涙が零れ落ちた。



いつから好きだったんだろう。本屋で声をかけられた時? 初めて一緒に図書館へ行った時? いや、もしかしたら、なんだか気になると思った最初の出会いから、始まっていたのかもしれない。そのくらい自然に、自分でもわからないくらいに、息をするように長次に恋をしていた。










二人で過ごす、初めてのクリスマスだった。

長次と恋人になって、五か月。長次が見た目通りお堅いのと、共同生活のルールもあって、二人で会うのはいつだって日の高い昼間だけだった。
夕方、日が傾き始めると、自然と帰る方向に向かってしまう。一緒に夕食を食べたこともない。夜道を歩いたことだってない。けれど、今日だけは違った。

「駅前のイルミネーションがきれいだから、」
と、初めて二人で夜の街を歩いた。日暮れが早かったから、夜というよりも、夕方という表現の方が正しいかもしれないけれど。

通勤帰りのサラリーマンがちらちらする歩道を、二人でゆっくりと歩く。寒くて縮こまる手を、長次のあったかくて大きな手のひらが包み込んでくれた。じんわり移る体温。近い距離。藍色に浮かぶ、青白いきらきら。いつもとは違う雰囲気に、二人して飲み込まれていたのかもしれない。

「……今日は、ずっと、一緒にいたい」

手を繋いだまま乗った電車は、自宅とは反対方向だった。




家に着くまで、肯定の姿勢をとっていた長次だけれど、仙蔵に連絡した途端、なんだか雲息が怪しくなってきた。
「やっぱり、帰ろう。」
そう言い出してしまいそうで、それが嫌で、先手を打つつもりで、「今日は帰らないから。」と、まっすぐに長次を射抜く。

だって、今日は特別な日だから。恋人同士が過ごす特別な日で、初めて街中で手を繋いで歩いた日。全部が特別で、大事な一日で、絶対にこの日を逃したくない。だから。

「わたしを、長次のものにして、」






そして再び惑わされた







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2012/8/8




title:確かに恋だった



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