長次が初めて小平太と会ったのは、高校三年の春だった。
コートの中での真剣な顔とは別人のような太陽みたいな笑顔に心ごと持っていかれるかと思うくらいの衝撃を受けた。
まさに一目ぼれだった。








高校で知り合った友人に誘われて行った先は、地区の中でも特に大きい公共の体育館だった。

『日曜って用事ある?』

そう言って誘われたのは先週の事だった。
幼馴染の出るバレーの試合があるんだと、留三郎が苦笑していたのを思い出す。
家が隣同士で、幼稚園からの付き合い、加えて忙しい共働きの両親の元で育った留三郎は、事あるごとに幼馴染の家にお世話になったらしく、兄妹みたいな関係になっているらしい。律儀にも毎回出る試合全て欠かさず観に行ってるらしいが、半分くらいは義務みたいなものだと笑っていた。
普段は一緒に行くはずの彼女の両親がはずせない用事とやらで都合が悪くなった、一人で行くのは勇気がいるから付いてきてくれ、とお願いされてさすがに無碍にも出来ず、その日の昼食を奢ってもらうという至極高校生らしい金額の奉仕で快諾するまでのやりとりは実に早かったと思う。

エントランスには応援で来ているらしい人でごった返していて、春先の冷えた空気とはまた別物の独特の熱気が篭っていた。

スポーツ特有の盛り上がりは性に合わないと思う。
運動が特に苦手というわけではなかった。どちらかといえばそこそこいい成績も取っていたし、何度か運動部に誘われたこともあった。それを断るたびに「もったいない」と留三郎に窘められたが、やる気はないからと主張して会話を終了させるやりとりも同じくらいあった。
体を動かす事が嫌いなわけではない。苦手でもない。けれど、根本的に好かないというか、肌に合わないと言うか。出来る事は出来ても、気持ちの面でのめりこむ事は無かった。実際、スポーツ観戦すら殆どした事が無い。そんな時間があったら、分厚い本を片手に文字を追っている方が有意義な時間だと感じていたからだ。

階段を上がって観客席に上がれば、熱気は最高潮だった。
下を見下ろせばコートが五面。バレーだった。

「お、始まる」

留三郎の言葉にコートに目をやるが、正直どこを観ていいのかわからなかった。一体どの試合なのか、留三郎の幼馴染を知らない長次には全てが同じ風景に映っていた。

長次と違って留三郎は運動全般が好きな男だ。運動部にも所属していて、確か剣道だった。試合を見に行った事は無いが、遠征やら大会があるたびに話題を振ってくるし、大会に出ればそれなりの成績を残してくるのだから嫌でも覚えてしまった。
やるのも大好きだけれど、観るのも好きなんだと笑って話していた事を思い出す。プロ野球やサッカー、バスケなんかの世界大会があれば録画していて観ているらしい留三郎は、今日も楽しそうにしていた。義務だと言い訳していたが、なんだかんだで観たかったんだな、と思う。
薄っぺらい四角い箱の中で見る景色と、生の試合はやはり違っていて妙な高揚感があり、この空気に呑まれて盛り上がるんだなと、冷静な頭が勝手な分析をしていた。横に座る友人は、完全に下のコートに心を持って行かれている。
それでも自分はのめり込む気にはならなくて、なんとなく手前のコートに目をやる。ふと、真剣な顔でボールに食らいつく選手が目に入った。コートの中をぴょこぴょこ飛び回る様は見ていて飽きない。真剣なのにどこか楽しそうにボールを追いかける姿に、自分とは別次元の人間なんだと感じた。



二時間ほどで終了した試合。けれど結局留三郎がどの試合を見ていたのかは分からずじまいだった。
長次はその間ずっと同じコートだけを見続けていた。藍色がかった髪を一括りにして動き回っていた女子をなんとなく目で追っているだけだった。別に特に意味は無かったと思う。なんとなく、本当になんとなく観ているだけのつもりだったのだ。
そういえば、あの試合もちょうど終わったところだった。

帰ろう、と席を立ったところで留三郎に制止される。

「わりぃ、電話」

返事をする間も与えず、それだけを告げて携帯を耳に押し当てた友人に溜息が漏れる。断りのつもりだったのかも怪しかった。
このタイミングで電話をかけてくるってことは、多分例の幼馴染なんだろう。そんな予想は容易に出来た。
数分で終了した会話の後に留三郎が困ったような笑いを浮かべて。

「ちょっと待ってくれ。こっち来るっつーからさ」

幼馴染が、と苦笑した。

分かりやすいように、と観客席から離れた踊り場に場所を移した。相変わらずホール内は熱気に包まれていたが、試合の見えない階段前のこの場所はコンクリートの放つ冷気も混じって少し温度が低く感じた。
待ってる間なんとなく手持ち無沙汰で聞いてみれば、試合を見に行くのも試合終了後に会うのも日常化しているらしい。普通、幼馴染相手にそこまでするものなのか。
長次にだって幼馴染はいる。女ではなく男だけれど、それこそ留三郎と同じで幼稚園の頃からの付き合いだった。それでも中学を卒業して進路が変われば自然と疎遠になっていった。かといって全く音沙汰が無いわけではないが、それでも必要外には連絡は取っていない。男同士でもそれぞれにコミュニティができれば疎遠になるものなのに、規格外の留三郎には全く当てはまらなかったみたいだ。
そこまでするからには恋愛感情の一つでも孕んでいるものかと問えば、物凄い勢いで首を横に振られた。

「あいつとはそんなんじゃねー。つーか、女としてみたことねぇし」

背もでっかい。化粧っ気もない。そもそも態度が女らしくない。馬鹿だし、取り柄が運動だけとがどうなんだ。あいつの将来が心配だ。
そういって理由を並び立てる留三郎は、さながら父親のようにも見えて少し面白かった。
それでも、留三郎が当たり前のように抱いている感情は、理解しがたいものだったが。

「…あ、きたきた」

手すりから身を乗り出して階下を覗き込んでいた留三郎が、会話を中断して件の幼馴染到来を告げる。こっちこっち、と手招きする留三郎の視線の先には、先刻まで長次が追いかけていた女がいた。楽しそうにバレーに興じていた、彼女が。
それに気がついた瞬間、心臓が大きく跳ねて、自分のものなのに自分ではないような反応に、心底びっくりした。

ユニフォームの上から軽くジャージを引っ掛けた彼女は「留」と笑っていた。
上から見ていた時は遠近感覚がずれていて気がつかなかったが、確かに背は高い。それでも長次の方が高いけれどその差は僅かだった。平均以上の身長があるのだから、普段は女相手なら嫌でも旋毛が見下ろせるのに、頭半分くらいしか違わない彼女相手ではそれは叶いそうもなかった。多分、留三郎と同じくらいはあるんだろう。でっかい、と言っていた言葉にも素直に頷けた。
あれで留三郎はプライドが高い。普段はそんな素振りを全く見せないが、古風なところのあるあいつは自分より目線の高い女は横に置きたくないんだろう。今は微妙に留三郎のほうが高いけれど、ヒールなんて履かれた日には優に追い越してしまいそうだった。

そんな事を考えていれば、留三郎の幼馴染が「こいつ、誰?」と長次を見ていることに気がついた。
零れ落ちそうな大きな瞳が同い年とは思えないほど綺麗だった。年相応の穢れを全く知らないといった風貌の瞳も姿も、ラムネの中に落ちるビー玉の様にキラキラしてる。庇護欲に駆られるという言い方は正しくは無いかもしれないが、幼い子供を庇い護りたくなる気持ちに近いと頭に浮かんだ。

「こいつ、中在家長次。俺のダチだ。んで、こっちが七松小平太。俺の幼馴染ね」

仲介役の留三郎が簡潔に紹介してくれたので軽く会釈をしたら、何故だかすごい勢いで手を握られた。生粋の日本人に握手は慣れない。けれど、そんな長次の思いは露知らずといった風に小平太は手はそのままに「よろしく」と笑った。同時に、体中の血液が集まったんじゃないかと思うほどに、酷く顔が熱くなる。
性急に掴まれた手はあっけなく離れ、彼女の視線も長次から留三郎へと移っていた。それを少し寂しいと感じている自分が居て、思わず頭を振った。

「つーか留もさぁ、試合くらい一人で観に来いよー。なっさけない」
「うっせぇ!来てやっただけ有難いと思えよな!」
「わかってるって、感謝してますー」

留三郎とじゃれあう姿は本当の兄妹のように見えたし、屈託無く笑うさまは到底同い年には見えなかった。
不意に、あ、と声を上げた小平太に、集合時間じゃね?と留三郎が小突いている。このやりとりも恒例なのだろうか。

「今日は応援ありがとーな!」
「あー、いいって。試合観んの、好きだし」
「ええと、長次だっけ?留に付き合ってくれてありがと。また会えたらいいな!」

そう言って夏の向日葵みたいな笑顔を向けた彼女は去っていった。

まるで嵐のようだった。
試合中の真剣な眼差しが嘘のように、コロコロと良く動く表情、突拍子の無い行動。その全てが長次の知っている女子高生像とは全く別物でひどく新鮮だった。普段からしていないのか、化粧っ気の無い肌は健康的な色をしていたが、それでいてまるで痛んだ様子も無く綺麗なものだった。太陽を追いかける向日葵のような笑顔を思い浮かべれば、胸の奥がじんわりと温かくなる。
可愛いな、と思った。と同時に無償に気になった。
知っているのは名前のみで通っている高校も普段の生活も何も知らない。教室では、部活では、家ではどんな風なのか。何が好きで、どんなものが苦手なのか。
周囲にこれといった執着も持たず過ごしてきた十七年間で、初めて他人を、七松小平太という女を深く知りたいと長次は思った。









あの日、会話らしい会話なんて出来なかったし、最後に交わした社交辞令も社交辞令のまま終わった。

たった一回会っただけでこうも心を揺さぶられるとは思ってもみなかった。
あれ以降、留三郎に観戦に誘われる事も無かったし、偶に遊びにいく奴の自宅付近で見かけることも全く無かった。それでも留三郎の口から彼女の話題や観に行ったらしい試合の話を聞けば、体の奥からなんとも形容しがたい感情が這い上がってきて、自然と心臓が早鐘を打った。「小平太」と当たり前のように彼女の名前も紡ぐ留三郎に、心が焼けるように痛くなった。
この気持ちが何なのか、それが分からないほど馬鹿ではない。
たった一度会った、それだけなのに長次は確実に小平太に惹かれていた。






特等席きみのトナリ






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2010/10/18




title:確かに恋だった




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