始めて出会った日から一年経ち、高校から大学へと通う学び舎も変わった今でも彼女の笑顔は忘れない。

四月から通い始めた大学は、合格通知を貰った中で通いやすさと卒業後の進路を見据えた上で選んだ所だった。本命は公立の外語大だったが、健闘空しくあっさりと落ちてしまった。そのかわりなのか、乗り気ではなかった滑り止めは九割の確立で合格し、さすがに浪人するわけにも行かず選んだ大学は留三郎と同じだった。選んだ進路を伝えれば、学部は違うけどよろしく、と留三郎が笑った。これは卒業式でのやりとりだ。
あれから数は少ないが、そこそこに連絡は取り合っている。けれど、広いキャンパスではそうそう会うこともないし、入学したてで忙しいのはお互い様なので取り立てて再会を仄めかした事は無い。ただ淡々と時間だけが過ぎていくだけだった。


春というのは得てして飲み会が多発する時期だった。クラスやらサークルの新歓、誘いは何度か来たが大半は断った。理由は明白で、人と群れるのがあまり好きではないからに他ならない。
それでも今回だけは、と拝み倒されついつい頷いてしまった。行くことになったそれは合同のもので、名目上は親睦を兼ねてと言っていたがただの合コンなんだろうなというのは直ぐに察しがついた。多分、人数合わせかなんかなんだろう。気は進まないけれど、行くと言った以上は参加しないわけには行かない。一次会だけで直ぐに抜けてくるか。
面倒だ、と内心毒づいて連れて行かれた先は、安さが売りの居酒屋だった。





茶色の液体が注がれたグラスの中でカランと氷が音を立てた。
酒が飲めないわけではなかったけれど、ここは公の場で未成年の身で飲酒に走るのは憚られ、下戸だからと適当な理由をつけて頼んだものは烏龍茶だった。コンビニで買えば百円とちょっとで買えてしまうそれに三倍以上の値が付いているのだから不思議でしょうがない。
既に出来上がってる先輩や同級生は離れたところで異常な盛り上がりを見せていた。その周りには何人か女の姿もあるけれど、それに混ざる気にはなれなかった。
明日の授業、何限目からだっけ?
場に似つかわしくない、そんな事を考えつつ汗をかいたグラスを見ていた時だった。

「なぁ。お前、留三郎の友達じゃないか?」

明らかに「女」と分かる声色が突然頭上から降り注いできた。おまけに慣れ親しんだ友人の名前まで出てきたことに驚いて思わず顔を上げると、そこには夏に咲く向日葵のような笑顔を浮かべている女がいた。
にぃっと笑うその表情は一年前となんら変わりが無い。惹きつけて止まない大きな瞳も、愛嬌のある表情もしぐさも、全く変わりが無かった。
七松小平太が、そこにいた。

夢を見ているようだった。飲んでもいない酒に酔ったのかとさえ思った。
だってまさか、こんなところで会えるなんて思わないだろう。
現実感がちっとも感じられなくて呆けていたらしい。人違いだった?と呟かれ、慌てて、違う、と返した。

「留三郎は友人だ」
「お、やっぱり!去年、試合に観に来てくれた人だろ?」
「……ああ」

一年も前の事だ。しかもほんの数分しか顔をあわせていない上に、会話らしいものだって交わしてもいない。それでも覚えていてくれた事が嬉しくて、じわじわと体温が上がっていった。

「ここにいるってことは、同じ大学なんだな」

よろしく、と言って笑う姿はやはり幾分か幼さを残していた。



そのまま長次の隣を陣取った小平太と話した内容は実に平凡なものだった。改めて自己紹介をした後は、互いの学部を教え合って、後は取るに足らない日常の些細なことで笑いあった。
時折、飲み会の中心人物らしい男が、こっちに混じれ、と彼女に話しかけていたがその度に、こっちで飲むからいい、と受け流していた。
大して面白い話も出来ないのに、傍に居てくれたのが嬉しかった。そこに特別な感情が無いのは分かっていたけれど、湧き上がってくる気持ちを抑える事は出来なかった。

女らしさの欠片も無い、と留三郎は言っていたが、一年経てば変わるものなんだろうか。目の前にいる彼女はボーダーのカットソーにサロペットを合わせていて、カジュアルではあったけれど、けして女の子らしくないといった風ではなかった。控えめに施された化粧も好感が持てる。可愛かった。


楽しい時間というのは、過ぎるのも早い。あっという間に一次会はお開きとなり、居酒屋の前で二次会はどうするかと幹事らしき男が談笑しているのが聞いて取れた。
彼女は行くんだろうか。
視線を流せば気がついたのか、服の裾をくいくいと引っ張られた。

「なぁ、二次会行く?」
「いや、これで帰る」
「なら私も帰るよ」

言うが早い。帰るからー、と大声で叫んだ彼女は長次の腕を取ってさっさとその場から退散した。後ろから残念そうな声が耳を掠めたが、小平太の耳には届いていないらしい。
いいのか?と控えめに聞けば、あいつべたべた触ってくるから嫌いなんだ、と唇を尖らせていた。小平太にしつこく声をかけていた男の事だった。
会話を断ち切るように、それより、と小平太が笑った。

「中在家って舌噛みそう。なぁ、長次って呼んでいいか?私の事も小平太でかまわないから」
「…ああ」
「ありがとな!」

弧を描く目元が口元が、一年前に留三郎に向けていたそれとなんら変わりが無く、聡い長次は小平太に友人以上の感情が全く無いのだとひしひしと感じた。ずっと隣にいたのはしつこい男から逃れるためだけで、それが偶然自分だった。それだけの事だ。寧ろ名前で呼んでもらえるだけ、自分は運がいいのかもしれない。ギシギシと悲鳴を上げる心に必死に言い聞かせていた。











『学部近いから会えるかもしれないな』

これは飲み会の席で小平太が言った言葉だ。



確かにあの日聞いた学部は、広いキャンパス内でも近い位置にあった。それでも何百人といる学生の中から一人を見つけるのは容易ではないし、それこそ万に一つくらいの可能性だろう。
飲み会で散々話をしたのに、携帯の番号すら知らなかった。本当は知りたかったのに、慣れていないから上手く聞き出す事もできず、駅で別れたのは苦い思い出だ。

講義を終えた教室内は閑散としていた。時計の短針はとっくに十二を越えている。何時の間に終わったんだろう。
ぼうっとした頭では授業の内容すらろく入っていなかった。

広い敷地内にはいくつか学生食堂があった。長次が普段食事を取るのは、教室のある棟から一番近いカフェだった。白を基調にしたカフェテリアは天井も高く、広く取られた窓枠が開放的で酷く落ち着いた。
奥まった窓際のテーブルにトレーを置く。本日のメニューはカレーライスだ。
なんとなく食べる気が起こらず、ガラス越しに流れる風景だけを見ていたら何故か肩を叩かれた。
周囲と距離を置いている長次に対して親しげに接してくる人物は限られている。同じ大学内でとなれば更に範囲は狭まる。留三郎か、と振り返った先にいた人間は予想していた男ではなく、女だった。
思わず息を呑んでしまう。

「よっ!長次」

小平太はオムライスを乗せたトレーを持ったまま、こんなに早く会えるとは思わなかった、と笑っていた。

「ここ座っていいか?」
「…ああ」

どうぞ、と促せば躊躇いも無く正面に腰を落ち着ける小平太に心底戸惑った。

きっともう会うこともないだろう。
そう諦めていたのに、現実では目の前に彼女がいる。今まさに起こっている事は現実だけれど、如何にして信じがたいのも事実だった。

「長次はいつもここで食べてるのか?」
「ああ、大体」
「私は初めて来た」

他にも食事を取る場所はいくつかある。小平太は入学してから一ヶ月間、一箇所づつ全メニュー制覇を目論んでいたらしい。
黄色い卵とケチャップライスを口に運ぶ彼女は実に美味そうに食べる。その様子に目を細めた。

「ここいいなぁ。私も明日からここにしようかな?」
「え?」
「長次、明日もいる?いたら席取っといてよ」

お願い、と可愛く強請るものだからついうっかり頷いてしまった。






それから、なんとなく流れでお昼を一緒に取るようになった。
カフェまでは長次の方が近いので、必然的に待つ形になる。殆ど指定席になっている窓際の席に荷物を置くと、小平太が来るまではちょっとした読書タイムだった。一昔前のさまざまな人物の葛藤や人間模様を描いたその本の文字を追う。別段読むのが遅いわけでもないのに、いつも十ページ程度しか進まない。
それは小平太が運動になるからと走ってここまでくるからなのか。小平太に会えるという事実に高揚して心ここにあらずな状態のせいか。多分理由は後者が大半を占めているんだろう。

小平太と共に過ごす時間は、ランチタイムの一時間程度だった。
互いに食事をしながら他愛もない話に興じる。その時間がすごく楽しかった。人と共に過ごす時間がこんなにも心地よいと思ったのは初めてだった。留三郎と過ごした三年間もそれなりだったが、楽しかったというよりかは気楽だったという部分が大きかった。けれど、今はなによりも、彼女に笑っていて欲しいと切に願ってやまないのだ。

やっぱり、好きだ。

小平太の交友範囲は予想を上回る勢いで広かった。同級生だけではなく先輩にまで広がったそれは、彼女の人柄が成し得た業なんだろう。そして自分もその中の一人に過ぎないんだろうと思い知らされるのだ。
ただの知り合い、友達。それ以上でもそれ以下でもない。そんな関係だった。

「遅くなってすまない」

カタンとプラスチックがぶつかる音に落としていた目線をあげれば、いつもの席にいつもの彼女がいた。小平太が来るまでは食事に一切手をつけない長次に、申し訳なさそうに眉尻を下げている。

「いや、そんなに待っていない」

本を閉じると鞄の上に置く。
先に食べてていいのに、と小平太は言うけれど、出来るなら一緒に食べたかった。声を合わせて「いただきます」と言いたかった。せめてこの時だけは一緒に過ごせる優越感に浸っていたかった。
けれど、こんな想いは長次の独りよがりに過ぎない。知られてはいけない。感づかれてもいけない。だから言い訳をする。
キリの良い所まで読みたかっただけだ、と。





食事が終われば一緒にいる理由も無くなる。
綺麗に平らげたトレーを返却口に戻してカフェを後にすれば、別れの挨拶をするだけだった。

「じゃあ」
「ああ、また明日なー」

屈託無く笑うのもいつも通りだ。背を向けて歩き出せば、彼女と過ごせる時間は二十三時間後までお預けだった。
今日はもう授業も無い。書店にでも寄ってさっさと家に帰ってしまおう。
そんな考えを巡らせていた。

「……っ、うわ…っ!」

背後から響いた声と、鈍い物音に振り向けば、そこには地面にうつ伏せに倒れている小平太の姿があった。
辺りには持っていた荷物が散乱している。
ひゅっと喉が鳴る。背筋が凍るかと思った。

「小平太…っ!」

慌てて駆け寄れば、転んでしまったよ、とあっけらかんと言われ肩の力が抜けた。
原因はなんだろう。下に視線を彷徨わせれば石畳の一部が不自然に盛り上がっていて、ここに躓いたんだなとわかる。
これはちょっと危ないな。

「大丈夫か?」
「おお、へーきだ」

本当なら手を差し伸べてやりたかったけれど、希薄な関係でしかないのにそれはどうだろうと思い、声を掛けるだけにした。かわりに辺りに散乱している荷物を拾い上げていく。ノート、ペンケースにプリント、土埃に塗れてしまったバックも一緒に回収した。

散らばった全てのものを拾い集めて、小平太に渡そうと踵を返すと、はらりと紙と紙の間からすり抜けるように小さな物が落ちてしまった。
いけない。
そう思って拾い上げたものは写真だった。小平太が映っている。

「…それはだめだっ!」

思わず凝視してしまったそれに気が付いた小平太が、長次の手から引っ手繰る様に写真を奪った。酷くうろたえた様子に、こっちの方がぎくりとする。

写真に写っていたものはなんてことは無い。背の低い茶髪の女の子と一緒に笑って映っているただの写真だった。制服姿に胸元には花を、手には黒の筒を持っていた。多分、卒業式かなんかだと思う。別におかしなところなんて何一つ無い。なのに、何故そんなに慌てて隠すのか。
長次にはさっぱり分からなかった。

「……すまなかった」

何かすごく大事なものだったのか。
いけないものに触れてしまったようで、彼女を酷く傷つけたようで、自然と謝罪の言葉が出ていた。

「…いや、私のほうこそ、ごめん」
「いや、そんなことはない」

握られた写真は少し角が曲がっている。
先に不躾な行動をとったのは自分の方だと改めて詫びると、小平太は何処とも無く視線を泳がせていた。
小平太が狼狽する様は今まで見た事の無い。普段の奔放さはすっかり影を潜めていた。








不審に思ったのは確かだったけれど、結局追求も出来ずにその日もいつも通り別れて、授業に向かった。
卒業した後もああして持っていたのだから、相当大事な写真だったんだろう。それを勝手に見てしまったのだから、あの反応も一理あるんだと思う。けれど、あそこまで慌てるのは何故だろう。何か理由があるのか。
考えても出る事のない答えを探しながら、長次は今日もいつもの時間にいつもの席でいつも通り文字を追った。当然内容なんて入ってこない。
形ばかりの読書をすること約五分。よっ!と明るい声が降ってきた。顔を上げればそこにはいつも通りの小平太がいて、変わりない様子に胸を撫で下ろした。

別に疚しい事をしたつもりではなかったけれど、気まずいまま別れたのも事実で、心の片隅で少しだけ、今日は来ないかもしれないと不安を感じていた。
特に親しいと呼べる間柄ではなかったのに、こうして一緒にいれる時間はとても貴重だった。ランチタイム以外は一緒に行動することもないし、小平太に繋がるものは何一つ持っていない。そう、未だに携帯の番号すら知らなかった。だから小平太がこの時間、ここに来てくれなければ広いキャンパス内で会う事はほぼない。
こうしていられるだけで十分だ。
誰に言うわけでもない。自分にそう言い聞かせ、湧き上がる疑問は胸の奥に捻じ込めた。

本をしまいテーブルに向き直ると、神妙な面持ちの小平太の双眸とぶつかった。
あのさ、と紡ぐ声は少し震えている。白い清潔な色をしたテーブルの上を滑るように、すっと写真が差し出され息を飲んだ。
それは昨日の写真だった。端が少し折れていて、昨日、自分が不用意に見てしまったためかと思うと胸がチクチクと痛む。

「長次はすごいいい奴だし、一緒にいて楽しいんだ。だから、隠し事せずに…付き合いたい」

あのな、と言葉を繋いだときの小平太の瞳は酷く揺らいでいた。
常には無い声色に鼓動がどんどんと早まる。
すごく嫌な予感がした。これは直感だった。

「私、この子が、好きなんだ…」

小平太の視線の先には先程の写真があった。
あれに映っていたのは二人だけ、小平太と見た事の無い少女だけだ。つまり小平太はあの写真の女が好きということなのか。
と言う事は、彼女の恋愛対象は、女。女なのか。
嘘だろう。
そう思うのに、願うのに、彼女から絞り出された声は震えを伴っていて、これが嘘ではないんだと否が応にも感じた。

小平太の突然の告白で、長次は静かに失恋をした。





特等席きみのトナリ







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2010/10/19




title:確かに恋だった




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