翌日からも、長次とのランチタイムは変わりが無かった。
白で彩られた清潔な雰囲気のカフェで、いつも通りの窓際の席で、いつも通りに長次は待っていた。手には分厚い文字ばっかりの本があり、長次の眼球はそれを追っている。何もかもが、本当に「いつも通り」だった。
変わったのは話題に伊作の名前が挙がり始めた事だった。

メールで、電話で、こんなこと言ってたんだ。忙しいけど、学校が楽しいみたいだ。伊作が楽しかったら、私も嬉しい。

全く関係ないであろうこんな話にも、長次は呆れずに付き合ってくれた。そのことに酷い喜びを覚えた。

「実は週末、伊作と会うんだ」

ここのオムライスは絶品だ。
初めて長次と共に昼食を取ったときに食べたそれを週に一度は食べている。とろとろの卵が絶妙で、口の中でふわりと蕩ける。それを口に運びながら告げれば、楽しんで来い、と僅かに口元を緩めて笑われ、妙にくすぐったく感じた。
やっぱり長次は気持ちのいい奴だ。


看護士を目指して専門学校へ通っている伊作と、ただの大学生の小平太とでは忙しさの度合いが違った。会いたいという欲求はあっても、夢を追う伊作の邪魔はしたくない。だからこそ連絡のやり取りの大半はメール、電話は殆どしなかった。理由は明白で、声なんて聞いた日には会いたい衝動を抑えきれそうもなかったからだ。だから出来るだけ我慢してきた。

昨日受信したメールを開けば、ピンクの背景とさくらんぼやひよこの絵文字で可愛くデコレーションされたメール画面が広がる。内容は週末の約束の待ち合わせ時間とか待ち合わせ場所とか、業務的なことが殆どだけれど、最後に『すごく楽しみ』と添えられていて、それだけで天国にいけるんじゃないかと思うほどのこの上ない幸福感に包まれた。
嬉しくて何度も何度も眺めてしまう。

「…よかったな」
「うん、すっごい待ち遠しいなぁ。早く日曜日になって欲しい」

早く、早く会いたい。
逸る気持ちが先立ってそんな風に言えば、長次は、待ってる時間も楽しめばいい、と零した。
会う時間だけが楽しいんじゃない、それを待ってる時だって楽しいんだ。そう、例えば体育祭も文化祭も、計画を練ったり準備している時だって楽しいだろう、時には本番よりも楽しい場合だってある、それと同じ要領だ、と。

「……そんな風に考えたことなかったなぁ」
「発想の転換だ」
「へーへー、やっぱり長次はすごいな!」

純粋に感心していたら、そんなことはない、とそっぽを向かれてしまった。
気を悪くしたかと少し焦ったけれど、僅かに覗いた耳朶が朱に染まっていて、普段の大人びた態度とはまた別の子供のような反応に顔が綻んでしまった。

「月曜って授業入ってないんだよな」

単位制なので当然毎日のように授業があるわけじゃない。けれど長次は、後が楽になるから、と結構ぎゅうぎゅうにコマを取っているみたいだった。小平太だってそこそこ取っているけれど、長次ほど躍起になって単位取得に励んでいるわけでもないので、月曜日は丸々空き時間になっていた。

(ちえー、伊作の話が出来ないじゃないか。)

必修が無かったし連休になるのは嬉しかったからスルーしてたけど、何か授業を詰めとけば良かった。そしたらお昼には長次に話聞いてもらえたのに。
すごく今更な反省をしつつ、はたとあることに気が付いて、携帯を弄る手が止まった。
アドレス帳のタ行にもナ行にも、目の前の男の名前が無い。
平日はほぼ毎日、まるで約束事のようにこうやって同じ時間を過ごしていたからすっかり頭から飛んでいたけれど、長次の携帯の番号も知らなければメールアドレスさえ知らなかった。自分が知らないと言う事は、長次だって小平太の番号を知らないって事だ。

「長次!番号交換しよう!」
「え?」
「何で気が付かなかったんだろ。電話だったらいつでも話出来るじゃん」

思い立ったが吉日。
早く携帯出せ、と急かして互いの携帯を向け合い赤外線を送信した。赤外線がよく分からない、と言う長次にはワンコール掛けさせて、ついでに空メールも送信させる。これで番号交換は無事終了。
ものの一分も掛からない作業だったけれど、確実に繋がった。

「これでいつでも連絡取れるな!」

液晶に煌々と照らされた十一桁の数字と英数字の羅列に、おもわずほくそ笑んでしまった。










そして日曜日。
それぞれの春が来てから、久しぶりの再会だった。

「久しぶりだなぁ!」
「二ヶ月ぶり?」

たった二ヶ月、日に置き換えたら六十日経ったか経ってないかなのに、互いに「懐かしい、懐かしい」と何度と無く繰り返してはしゃいだ。
久方ぶりに拝む伊作は高校生だった頃と同じ柔らかい笑みを浮かべていて、全く変わりがないことに酷い安心感を覚えた。

グーグー鳴るお腹を抱えて向かった先は安さが売りのファミレスだった。
メニューを広げれば、伊作は真っ先にデザートをチェックしていて、先に主食食べろよ、と窘める。これも高校時代からの恒例パターンだった。

「伊作から連絡してくると思わなかった」
「え?そお?」
「うん」

先に音をあげるのは自分の方だと思っていた。会いたくて会いたくてたまらなくて、寂しさと空虚感に蝕まれて「会いたい」と告げるのは自分なんだと信じてやまなかった。実際にすごく会いたかったし。
けれどそれはいい意味で覆された。今回、伊作の方からそれを伝えてきたのだ。その事実が嬉しくてたまらない。

テーブルに設置されたベルを押して店員のお姉さんを呼ぶと、ミートドリアと茄子とトマトのパスタとドリンクバーを頼む。ドリンクはご自由に、とお決まりの文句を右から左に流した後、グラスを取るために席を立った。
食洗機にかけられたばかりのグラスは温かくて入れたばかりの氷が少し解けてしまった。

「小平太にはどうしても伝えておきたいことがあって」

アイスティーがなみなみと注がれたグラスにガムシロップを注ぎながら伊作が言う。言葉だけを聞いた瞬間は「特別」と言われてる様で胸の奥がくすぐったかった。けれど、振り返った先、伊作のほっぺたがほんのりと色づいていて、心臓が早鐘を打った。
すごく、嫌な予感がする。
無意識に手が震え始めて、オレンジジュースが入ったグラスに水面を作った。熱っぽく揺れる瞳が、染まる頬が、高校時代の苦い思い出をフラッシュバックさせて、湧き上がってくる嫌な予感が全く拭えない。
根拠の無い不安感、ぜひとも気のせいであっていただきたい。
ジュースと氷をストローでガシャガシャ混ぜながら、落ち着け、と何度か心に言い聞かせる。そうしてなるべく平静を装って、なに?と無邪気に聞き返した。

「実は、いまお付き合いしてる人がいるんだ」

伊作の口から出た言葉は、絶対に聞きたくないと願って止まない台詞そのままだった。
頭を撞木で疲れたような衝撃が走り、ストローが指から抜け落ちる。それは静かにオレンジの水面に吸い込まれた。

卒業した三月にはそんな気配は欠片も無かったのに。
まさかの言葉に指が震えてしまって、グラスさえ持てそうもなかった。

「小平太には一番に知っていて欲しかったんだ」

伊作は嬉しそうにしている。友達として、お祝いの言葉を伝えなきゃ。おめでとう、良かったな、って笑わなきゃ。喜ばなきゃ。
頭ではそう理解しているのに、表情は引き攣ったままでうまく笑えなかった。

「どこで、知り合ったんだ…?」
「うん、合コンだよー」

同じクラスの子に無理やり連れて行かれて。でも行って良かった、と伊作は心底嬉しそうに語ってくれた。

内にちらつく淡い気持ちを言わないって決めたのは他ならぬ小平太自身だ。伊作に知られないように、悟られないように。絶対に口にしない。秘密にして心の中だけで伊作を想うと決めていた。言わなきゃ気持ちは伝わらないし、伊作だって年頃だ。だからいつかこういう事態になるって覚悟は疾うに覚悟できていたはずなのに、ちりちりと心の端が焼けだして痛くてたまらなかった。
ショックで会話の内容なんてまるで入ってこない。伊作の言葉に曖昧な相槌を繰り返すのが精一杯だった。声は震えて出なかった。

「そういえばね、彼の通ってた中学が小平太と同じだったんだよ。すごい偶然だよね」
「……へぇ」
「すごい珍しい苗字だから、分かるんじゃないかなって思うんだけど」
「…ど、どんな苗字?」
「あのね」

けまっていうの。

さっきまで全く届かなかった言葉達が嘘のように、それだけはクリアに耳に伝わった。
ケマ、けまって、まさか食満か。そんな馬鹿なことってあるのか。

「……まさか、…とめ、さぶろう…とか?」

違っていて欲しいと願いを込めてその名を口にする。出た声は震えていた。
伊作はぱぁっと花が咲いたような笑顔を作って。

「そう!留三郎。もしかして仲良かった?」
「……おさななじみ」
「え、本当?」
「……うん…」

楽しそうにする伊作にそれ以上何も言えなかった。

留三郎。よりにもよって、留三郎なのか。
自分の全く知らない他の誰かならまだマシだった。そしたらまだ救われたのに。他の誰でもない、幼い頃から知っているあいつに、一番大事な子を持っていかれるなんて思わなかった。想像すらしていなかった。
どうしてあいつに奪われなきゃいけないんだ。こんなの理不尽だ。

ギシギシと悲鳴を上げ始めた心はまるで言うことをきいてくれなかった。







どうやって伊作と別れたのかも分からなかった。
気が付いたら一人で駅前に立っていた。あたりは薄暗くなり始めていて、伊作の姿はもうない。

苦しい。苦しい。苦しい。辛い。

頬を伝う生温かい雫が、パタパタと音を立てて足元に落ちる。地面を濃く染めたそれと、すっかり滲んでしまった視界に泣いてるんだ、と他人事のように思った。
流れる涙は止まらない。胸の痛みも治まらない。ぎゅうぎゅう締め付けられてるように苦しくて、息さえうまく出来なかった。

バックから取り出した携帯。着信履歴の一番上をリダイヤルする。コールが一回、二回と鳴った。
お願い、出て。早く、早く。頼むから。
呼び出しは五回目で途切れて機械的電子音にかわり、もしもし、と控えめな声が漏れる。その声を聞いた瞬間、更に涙が溢れてしまった。涙腺が決壊したみたいだ。

「………ちょう…じ…」
『どうかしたのか?』
「……たっ…すけて…っ」

携帯を握り締めて、しゃくりあげる声は途切れ途切れで、実に滑稽だった。








あれから駅まで迎えに来てくれた長次に連れられて、彼が暮らす部屋へと案内された。
長次の家に行ったのは小平太のわがままからだった。
家に帰れば嫌でも留三郎を意識してしまう。窓から見える留三郎の家にさえ酷い憎しみを覚えてしまいそうで怖くて家になんて戻れなかった。涙だって止まりそうに無い。
送ってく、と言う長次の誠意に、こんな顔じゃ家になんて帰れない、と首を横に振って抵抗した。

無理すれば実家から通えない事も無いんだが、と前置きをされたので着く前になんとなく分かってたけれど、向かった先のそこはいかにも一人暮らし用なアパートだった。勉強に専念させるために親が借りたらしいそこは大学から程近い。反抗の意思も見せず真面目に大学に通う長次を思い出して、どこまでも真面目なんだな、と思った。

ブラウンのドアが開かれ、中に誘導される。
長次の部屋は恐ろしいほど殺風景だった。ベットと部屋の中央にこじんまりとしたテーブルと本が詰め込まれたカラーボックス、あとはテレビと観葉植物くらいしかない。

「適当に座ってくれ」

長次に促されて、窓際に腰を下ろす。優しいベージュを基調にした部屋はささくれだった心をちょっとづつ解してくれた。
この部屋も、長次も、温かい。

キッチンから戻ってきた長次に白いマグカップを渡される。
目の前にいる長次は心配そうに眉を八の字にしていて、それが少し申し訳なくて、でも少し嬉しくてまたじわりと視界が歪んだ。
カップの中身はココアで、甘い香りと暖かな湯気に、少しづつ落ち着きを取り戻し始める。それをちょっとづつ飲みながら、事の成り行きを全て吐露した。伊作と会った事。伊作から告げられた事。伊作と留三郎の事。全部を。
説明が苦手な小平太のそれは酷くおぼつかないものだったけれど、長次は黙ってそれを聞いてくれた。喋り続ければひっこんでいた涙が再び溢れてくる。伊作の言葉を思い出して心臓が掴まれたみたいに痛かった。

「…と、留三郎が、嫌いなわけじゃ…ないんだ…っ」
「ああ」

ただ、当たり前のように自分がいたポジションが、自分ではなく留三郎のものになってしまった事実に、胸焼けを起こしそうなほどの苦しみを覚えた。
そこはもう自分の居場所じゃない。横にはいられない。伊作の一番は自分じゃない、留三郎だ。伊作の横には留三郎がいる。これからはそれが当たり前になる。
幼い頃から同じように過ごしてきた兄妹と言っても過言でない幼馴染に奪われたショックは大きかった。それが留三郎じゃなくてもきっと自分は同じように泣いていたと思うけれど、よく知った人物に奪われたと言う事実は小平太の心に酷く突き刺さった。

伊作は悪くない。留三郎だって悪くない。わかってる、ちゃんとわかってる。
それなのに涙が止まらなくて、ただひたすら泣き続けた。愚図る子供みたいにボロボロと涙を零す小平太に、長次は一晩中付き合ってくれた。







特等席きみのトナリ







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2010/10/21




title:確かに恋だった




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