食事を済ませた後、長次に促されて電車に揺られながら自宅へと向かった。
酷い顔も食後に再び登場した蒸しタオルとアイスノン、それに長次がしてくれたリンパマッサージでだいぶマシなものになっている。
平日昼間の車内はがらんとしていて、小平太のぽっかり空いた心を更に寂しく蝕んでいった。心地よい揺れと枕木を越すテンポのいいリズムに半分意識を飛ばしながら、別れ際に交わした長次とのやり取りを思い出していた。

『…辛かったらいつでも聞いてやる』
『うん』
『忘れろ、なんて無理な話だろうけど』

いつかきっと、相手の幸せを願えるようになる。
そう言って長次は不器用に笑ってくれた。本当にそんな風に思える日が来るんだろうか。伊作の事を、留三郎とのことを、心から祝福できる日が来るんだろうか。
少なくとも、今は出来ない、と重たい息を吐いた。



駅について改札を抜ければ待ち構えていたかのように、留三郎と伊作が立っていた。二人が並ぶ姿に胸を捕まれたように息苦しくなる。やっぱり目の当たりにするのは辛い。

「長次相手だから間違いはねぇと思うけど、今度やったらただじゃおかねーぞ!」
「よ、良かったぁ。僕っ、…何かあったんじゃ、ないかって」

留三郎にはお叱りの言葉を頂き、伊作には泣きながら縋られた。余計な心配をかけてしまったことを深く詫びた。
泣かせるつもりなんて毛頭無かったのに、なにをやっているんだろう。ごめん、ごめんなぁ。
胸の中にいる伊作の背中をポンポン叩いて、何度も消え入りそうな声で、すまない、と繰り返した。



『いつかきっと、相手の幸せを』
『言わないって決めただろう。あの時からこうなる事は覚悟してたじゃないか』

一つは長次の言葉で、もう一つは自分の決意表明だった。両方を自分に言い聞かせるように何度と無く心の中で繰り返す。
伊作には笑っていて欲しい。幸せになって欲しい。
彼女の中に存在するヒエラルキーの頂点はもう自分じゃないけれど、泣くほど心配してくれたじゃないか。精一杯想われてるじゃないか。欲張るな。もう十分すぎるほどだろ。伊作の笑顔が見れるなら、守れるなら、私は潔く身を引くよ。
泣きじゃくる伊作を胸の内におさめて、淡い恋心と決別する決意をした。










心とは時に裏腹だと思う。それは中学の頃習った反比例のグラフのように綺麗な直交双曲線を描いていて、今、まさに小平太の心がそのグラフそのものだった。

伊作の前では精一杯いい友人でいよう。

理性では割り切っていても、深層心理はそうもいかない。長い間ためてきた恋心をばっさり切り捨てられるほど、非情になんてできていなかった。
日に日に留三郎の色に染まっていく伊作を見るのは、正直酷く辛かった。自分の隣にいた大好きな女の子は、手の届かない遠い世界に行ってしまった。伊作の横はすっかり留三郎の指定席だ。
抗いようの無い事実に心を真っ黒に塗りつぶされるような錯覚さえ覚えた。
留三郎の横で笑う伊作を見るのも焼けるような想いを覚えたけれど、何故か伊作の横で笑う留三郎を見るのも苦く切なかった。この感情が怒りなのか、嫉妬なのか、絶望なのか、それすら分からなくて、でもそれを隠し通そうととにかく必死だった。

逆に、長次と過ごす時間は酷く落ち着くことが出来た。
恒例のランチタイム以外にも、時間が合えば長次といる事が増えていった。伊作や留三郎と顔をあわせないように、という思いがあったかもしれないけれど、長次と過ごす時間はささくれだった気持ちがちょっとづつ柔らかくなっていって心が安らいだ。




長次との時間は平日のみならず、休日にまで及んでいた。

「今日はデートなんだってさ」

駅前に新しく開いたオープンカフェのお店で、クリームソーダのアイスと人口色の緑をぐりぐりストローで混ぜながら一人ごちる。
小平太の気持ちなど全く知る由もない二人からそれぞれ、明日はデートなんだ、と告げられたのは昨日の事だった。留三郎は夕食を食べに訪れたとき、伊作には夜メールでと、各ツールによってもたらされた情報は不快以外の何物でもない。
伊作が楽しいならそれでいい。割り切ったつもりだけれど、なんだかすごく切なくて寂しくて、ついつい長次を呼んでしまったのだ。
そうして今日も二人でいる。

「やっぱり面白くない。つーか、いちいち言わないで欲しい…」

留三郎にしろ伊作にしろ、ただ単に共通の友人に惚気ているつもりなんだろう。悪気は無いのは分かっていても、傷口に塩を塗りこまれるような行為に、項垂れずにはいられない。だって未だにズルズルと女々しく引き摺る気持ちは変わっていないのだから。
伊作と留三郎が付き合ってる事実は全く変わらなかったけれど、長次の家で泣いたあの夜のように大泣きするようなことはなくなっていた。それでも、じくじくと胸の端が締め付けられるような痛みは変わらない。
捨てられた子犬のようにしょんぼりと呟けば、長次は丁寧に相槌を打ってくれた。
こうして二人でいるときは殆どが小平太の独壇場で、長次は特にこれといった話題は振ってこない。たまに沈黙が走る事があったけれど、気まずい雰囲気に飲まれたりなんて事はなかった。静かな空間はそれだけでも心地よい。いつの間にか長次の横は居心地のよい席へと変わっていた。



空になってグラスをテーブルに置いて、今からどーする?と聞けば、図書館、と超真面目な回答が返ってくる。せっかくの休日なんだから学生らしく遊べよ、と言う言葉は飲み込んでおいた。

「DVD借りよ。んで、長次ん家で鑑賞会」

長次は顔を顰めたけれどかまわずに、早く行こう、と急かす。
会計を済ませて、どこのショップが近いか考えを巡らせている時だった。あれ?と聞きなれすぎた声が二つ被さってきて、全身の機能が一気に停止してしまった。嫌な汗が背中を伝う。
これでもかと開いた双眸が映し出したのは、小平太の心の痛みの原因になっている二人だった。

「うわー、すっごい偶然だねー」

留三郎と、いつも以上に可愛く着飾った伊作が、そこにいた。
二人が並ぶ姿をまともに見たのは二回目。無断外泊で怒られたあの日に見たっきりだったそれをまともに目にして、喉の奥がもやもやして気持ち悪くなった。
自然に絡まる二人の指が、否応無しに現実を突きつけてくるようで、やっぱり直視するのはしんどい。耐え切れなくて視線を落とせば変化に気が付いた長次が、急ぐから、と二人に告げていた。
はやく、一刻も早く、二人から離れたい。その一心で、デート楽しんでこいよ、と心にもない言葉と笑顔を、頑張って貼り付けた。

「うん、また電話するね。ところでさ、」

ちょっと耳かして、と手招きする伊作にその場から立ち去りたい気持ちを必死に抑えて応じる。身長差があるので必然的に小平太が屈む事になった。ちょっとだけ膝を折って耳を寄せる。
伊作から吹き込まれたのはとんでもない台詞だった。

「もしかして、中在家君と付き合ってたりする?」

鼓膜に膜が張ったように不鮮明でうまく聞き取れなかった。え?と聞き返すと、同じ言葉が耳元に再び注ぎこまれた。それでも理解するのに、たっぷり時間がかかったと思う。

長次との関係はあくまでも友達だ。小平太の秘密を唯一知っていて、尚且つその泣き言に付き合ってくれる貴重な友達。それ以上でもそれ以下でもないのに。好きなのは伊作だけなのに。
どうなの?と目をキラキラと輝かせて笑顔でそんな事を聞いてくる伊作は酷く残酷だった。
まなじりから一滴落ちる。伊作の姿が少し歪んで見えた。

「え?ど、どうしたの!?」

慌てた様子の伊作の口調と、あごから地面へと落下する雫を視界で捕らえて、ああ泣いてるのか、とどこか他人事のように自分の状況を理解した。
伊作の横から留三郎まで身を乗り出して、どうした?、なんてしゃしゃり出てきてさすがに慌てた。幼馴染に涙を見せたことなんて、ほとんどない。というか、記憶している中では皆無だった。

「…これは、目、に、ゴミ入っただけだから…っ」

必死にとりつくろうと笑うのに、涙のせいでそれがうまく出来ない。手の甲で流れ落ちるそれを必死に拭うのに、後から後から溢れてきてしまって、下手な誤魔化しもきかなかった。

「ご、ごめん…っ」

とめどなく溢れる涙を我慢する事ができなくて、それだけを搾り出すように吐き出して、逃げるように三人に背を向けて走った。

悪気があって言ってるんじゃない事は分かってるつもりだった。
学校は元より休日まで二人で過ごすなんて、普通に考えたらそういうものだって考えるだろう。誤解を受けたって文句なんか言えやしない。そんな事だって全部理解してるつもりだったのに。

伊作が留三郎と付き合うは、本当はすごく嫌だった。伊作は大事な女の子で、変わって欲しくなんてなかったし、そのままの変わらない彼女のままでそばにいて欲しかった。
長次との仲を誤解されるのだって同じくらい嫌だった。だって、長次は友達なんだから。大事な大事な、友達なんだから。

あやふやなまま、何がそんなに悲しくて、何にそこまで心を痛めているのかもさっぱり分からなかった。
迷子のままの思考を抱えて、とにかく逃げた。何に逃げてるのかもわからないまま、とにかく走って、走って、走って。気が付けば、繁華街はとうに抜けていて、辺りの景色は静かな住宅街へと変わっていた。無計画に走り回ったせいで、自分がどこにいるかも完全に見失っている。

すっかり上がってしまった息を整える為に立ち止まる。あれだけ走ったのに頬を伝う涙の勢いは止まっていなかった。酷く滑稽だ。
自嘲気味に息を吐いた瞬間、おい、と背後から声が降って来て息をのんだ。恐る恐る首だけで振り返る。そこに立っていたのは、肩で大きく息をした長次だった。

「なん…で、追っかけてくんだ…っ!」

ぐずぐずになった顔を晒すことなんて出来なくて、顔を背けた。長次に背中を向けたまま、声を張り上げる。引き攣った声はうまく口から出てきてくれなかった。
伊作の言葉に勝手に傷ついて、勝手に泣いて、勝手に逃げ出したのに。長次が追いかけてくる理由なんてないのに。なのに、なんで、どうして。

「小平太」

先程よりも声が近かった。突然、大きな手が背中側から現れ、何がなんだか分からないまますっぽりと長次の胸におさまってしまった。ゼロセンチになった距離と、身動ぎ一つ許さない腕に、長次の表情を伺うことなんて出来ない。

ベタベタされるのは好きじゃなかった。以前、飲み会で会った男はスキンシップが激しくて、その手が気持ち悪くて、逃げるように席を離れた事があった。あの時、逃げ場所にしたのは長次の横だった。
そんなのなんて比じゃないくらいに、くっついてるのに、長次にされるのは嫌じゃない。むしろ、濁りきっていた心がちょっとづつ綺麗になるようで、感じた事のない安心感に息を吐いた。理由なんて、自分にもわからない。

回された腕に更に力が篭ったけれど、抗う事もせず長次に身をまかせた。背中に感じる体温と、時折かかる吐息に、心臓がぎゅうっと苦しくなって、心なしか脈も早くなった。

「傍にいる。辛いならいくらでも受け止めてやる」

だから付き合おう。
長次からつむがれた甘い誘惑のようなその言葉に、頷いてしまった。









特等席きみのトナリ







****************
2010/10/24




title:確かに恋だった




back