なし崩しで長次と付き合うことになってから一週間と二日経った。おかげさまで伊作の事で酷く傷ついたり、落ち込んだり、苛々したりは大分おさまったけれど、今度は別方向の問題が出てきてしまって、小平太はそっと深い溜息をついた。
ちょっと前まで伊作の事で苦しい思いをしていたのに、いま頭を悩ましているのは他ならぬ長次だった。本末転倒って、こういう事いうんじゃないだろうかとひっそり思う。
正直、長次との関係性は、あまり変化がなかった。

ベットに転がった格好のまま、携帯から履歴を呼び出す。
最後の着信は伊作で、これは長次と小平太が「恋人」になった前日に寄越したものだった。その下は留三郎、そして伊作の名前が連なっている。履歴に長次の名前はない。長次から電話が掛かってきた試しは、一度だってなかった。小平太だってあの告白以降、ちょっと気まずくて電話はおろか、メール一通も送れていないんだから、とやかく言う事なんて出来ないけれど、それでもこれは何か違う気がした。
お昼だって相変わらず二人で取っているけれど、それこそ友達だった頃となんら変わりがない光景だ。ランチタイムに一時間だけ、他愛もない話をしながら食事をしてバイバイする。たったそれだけの時間だった。向かい合って食べているのに、直ぐ目の前にいる相手の気持ちは全く見えてこない。ポスターカラーを五色いっぺんに混ぜちゃったときくらい酷く不鮮明で、それでいて海の底に沈んだみたいに暗く深く沈みこむような気分に陥った。

大体、長次から言ってきたくせに変わらなすぎなんだ。
友達から恋人へ。客観的な周囲の反応こそ変われど、表面上二人の間にそれらしい事も雰囲気も全くなかった。長次は友人だった頃と本当にかわりのない態度で接してくるし、恋人らしい色事を求めてくる事もする事もなかった。それはあのときの言葉が嘘だと感じるほどで。ただ、知り合いなんかに会ったときだけは「恋人」と言う立場をきちんと主張する。
言ってる事とやってる事がちぐはぐのようで、小平太には長次の考えがさっぱり分からなかった。

「…何考えてんだか」

さっぱりわかんない。
誰に向けたわけでもないただの独り言とともに、うんともすんとも言わない携帯を部屋の隅に投げた。








そうして向かえた水曜日。

「……げ」

掲示板の張り紙に、小平太は思わず顔を顰めてた。そこには「休講」の二文字がある。今日に限ってネットでチェックしていなかった事に、すっかり項垂れてしまった。おまけにニ限目しか取ってなかった事も、沈む心に拍車をかけた。時計の針は、十時半を回ったところだ。
さて、どうするか。
回れ右でさっさと自宅に戻ってもいいけれど、授業だと思いこんでる母親は、小平太の分の昼食は用意していないはず。食いっぱぐれたくはないし、かといって自分で作ろうという気は更々ない。(女としてどうかと思うけど、どう頑張っても食べれるものが作れるとは思わないからしょうがない)
それにお昼は、長次といられる貴重な時間だった。学部も違えば取っている授業だって当然違う。家の方向も逆で、必要外に長次からの連絡はない。こちらからも取りづらい。つまり、お昼以外で自然に会うチャンスはないに等しいということだった。
よくわからないけど、これは世間一般で言う恋人同士とは全く違うだろう。
この一週間、不可解な関係性に頭を悩ませてばかりだった。
長次からの告白を思い出す。あれはあの日、柄にもなく泣いてしまった小平太を慰めるためだけについ出てしまっただけの言葉なのかもしれない。一生に一回の貴重な青春なんだから、友情の延長線上で長次の事を縛りたくなんてなかった。

(その辺もはっきりさせたいしな)

長次を待って、きちんと話をしよう。
そうと決まれば、どうやって昼まで時間を潰すか、という事に全神経を注いだ。図書室も自習室もごめんだし、サークルは籍を置いてるもののほぼ幽霊部員と化してるのでどうにも行きにくい。かといって周辺に時間を潰せるような適当な場所だってなかった。
結局、お茶しながら待つというダメ学生の手本みたいな計画に納まった。長次とランチを取るカフェはランチメニューは美味しいけど軽めのものは置いていない。朝とも昼とも言いがたいこの時間にそれはちょっときついと思い、ラウンジの方へと足を向けた。
少し歩く事になるだろうけど、それもいい運動になるだろう。







いつもよりゆっくり歩いてラウンジへと向かう途中だった。
通いなれたカフェの外から、窓ガラス越しに見慣れた横顔を掠めて、思わず足が止まってしまった。窓から少し離れた奥の席に難しい顔をした長次の姿がある。
あれ?今日ってニ限目ないの?
携帯で時間を確認すれば、とっくにニ限目開始時刻。真面目な長次がサボるとは思えないから、多分空きコマか休講か、どちらかなんだろう。
予定変更。せっかく会えたのだから、一緒にお茶しようかと、入り口に向かった時だった。颯爽とドアを潜る姿が目に入って、思わず固まってしまった。すごく綺麗な人だった。糸操りの人形のようにピンと伸びた背筋、恐ろしいほどの白い肌、人を一切寄せ付けない雰囲気に、すっかり飲まれて動けなかった。格好はシャツにパンツという酷くさっぱりとしたものだったけれど、そんなもの感じられないくらい綺麗な容姿をしている。端正な顔立ちは中性的だったけれど、たぶん、女だろ、と直感した。
…というか、あれで男だったら世の中の女の立場はないじゃないか。

そのままガラス越しに姿を追ったのが間違いだった。迷いなく座った彼女の向かいには長次がいて、縫い付けられたようにその場から動けなくなった。心臓が早鐘をうち、ぐっと息が詰まる。長次は普段の張り詰めた表情が嘘のように、緩い笑顔を浮かべていた。普段は恐ろしいくらい無表情なのに。

…なにこれ。

頭が真っ白になるとはこういうことを言うんだろうか。ガラス越しに見る二人はそれはそれはいい雰囲気で、泣きたくなるくらい胸がきゅうっと切なくなった。
あの女は誰?長次の何なんだ?
知り合ってからそう長いわけじゃないけれど、長次が人と群れるようなタイプでない事くらいは分かっていた。女はおろか男だって容易に近寄れない雰囲気をもっていた。普段はくつろいだ素振りなんて微塵も感じさせないのに、いま一緒にいる女とはすごく仲がよさそうに見えた。

分厚いガラスを隔てて見た彼女の横顔は、やっぱりすごく綺麗だった。
男並みに背のある自分とは違う。日に焼けてしまった自分の肌とは違う。現代日本において国宝級に珍しいだろう漆黒の髪はサラサラと揺れていて、癖っ毛であっちこっち跳ねている自分の髪とは全く別物だし、透き通るような白い肌も、長次を見上げる視線も、痛いくらいに「女の子」に見えた。

不意に女の手が長次の腕に触れるのが見えた。長次は嫌がる素振りもなく、表情だって和らげたままで。おもむろに長次の手が女の頭を撫でて、かぁっと全身の血液が頭に上った。

私には触れさえもしないのに、あの女には出来るのか。

小平太から触れる事だってないけれど、長次からだってもちろんない。一回だけ後ろから抱きしめられたけれど、それを覗いてしまえばただの一度もなかった。自分のことは棚に上げてよく言うと思う。けれど向こうから言い出した関係なのに、長次は常に一線引いていて、二人の間には常に見えない壁があった。
物凄く腹立たしくて怒鳴りそうになるのを奥歯を噛んで堪える。ギシギシと心が悲鳴をあげているようだった。

なんか、すごい嫌だ。気分が悪い。

何故か見ていられなくて、そのまま逃げるようにして自宅まで帰ってしまった。







頭まで被った布団の息苦しさで、小平太は目覚めた。
帰宅してそのまま、昼食も夕食も忘れてすっかり寝こけていたらしい。明かりのついていない室内は真っ暗で、扉の外も窓の外もすっかり静まりかえっていた。
明かりをつけるのすら面倒で、真っ暗のまま携帯を探す。手探りなのに思いのほか早く携帯を手にする事が出来たのは、チカチカと点滅するランプが見えていたからだ。ディスプレイを開けば「長次」の文字が浮かんでいて、忘れかけていたはずの嫌な感情がぶわっと湧きあがってくる。鏡を見なくても分かるくらい、表情が険しくなるのがわかった。

これが昨日だったら迷うことなくリダイアルを押していたけれど、今は到底そんな気分になれない。脳裏を横切るのはカフェでの二人の姿ばかりだった。

真っ暗になったはずの画面がまた光りだし、着信を告げる。浮かぶ名前は先程と同じだった。
無視を決め込んだってよかったけれど、わだかまったままのどす黒い感情をさっさと消化したくて、通話ボタンを押した。

「なんだ?」

予想以上に棘のある声が出て、内心舌打ちする。
元より感情をひた隠しにする事は得意ではなかったけれど、いくらなんでもあからさますぎた。今度は出来るだけ感情を押し殺して、何の用だ?と聞いた。

『いつもの時間に来なかったから、』どうしたかと思って

心配した、と予想通りの回答が返ってきて、ますます気分が悪くなる。思い出すのは、長次と黒髪の女の姿ばかりだった。いま電波で繋がっている長次にも、電話越しで姿形の見えないこの相手と親しげにしていたあの女にも、無性に腹が立った。
会話なんて聞かなくたって分かるくらいに砕けた様子の二人に、胃の中がまぜっかえるくらいの気持ち悪さを思い出す。怒りと不快感が同時に襲ってきて携帯を握る手が僅かに震えた。

あの女とはどういう仲なのか。
きっと聞かない限り、長次は答えないだろうし、向こうからわざわざ切り出す事だってないだろう。二人を繋ぐものは酷く曖昧で、長次も自分も恋心を抱いてるなんて到底思えない。口約束みたいな言葉に縛られているだけなら、黙って見過ごしたって問題ないのかもしれない。
そうだ。ここで笑いながら、女の子と会ってたよな。すごい可愛かった!彼女?なーんてちょっと茶化して聞いてしまえばいい。そしたら長次との関係も元に戻って、今までの居心地のいい空気に変わるはず。だから、そうしたらいい。
頭ではちゃんと割り切ってるはずだったのに、口から出たのは全く別物だった。

「……今日のニ限目って、授業出てた?」

しまった。
聞くつもりなんて毛頭なかった言葉が出てきて酷く焦った。背中が嫌な汗でじっとりと湿って気持ちが悪い。変な探りを入れるような聞き方が、またどこぞのドラマで観た浮気を疑う女そのものの口振りで、軽く眩暈を覚えた。
違う、こんな事聞きたいんじゃないのに。こんな言い方したくないのに。
慌てて入れようとした訂正は長次の零した、ああ、という肯定の台詞のせいで引っ込んでしまった。

頭の中が真っ白になって、長次の言葉を理解した瞬間、今度は真っ赤になった。
言わなきゃばれないって思ったのか。黙っていればそれでいいと思ったのか。
頭から血がスーッと引いたのか、それとも逆に頭にのぼり過ぎたのか、酷くくらくらする。嫌な聞き方をした自分も、それを嘘で返した長次も、全てが気持ち悪かった。

「私、知ってるぞ…」

見たから、と告げるとそれだけで悟ったのか、長次の声が詰まったのが分かった。

「何で嘘つくんだ。疚しい事があるのか?後ろ暗いことがあるのか?だから正直に言えないのか!」

矢継ぎ早に攻め立てても長次は何も言わなかった。
肯定されても否定されても胸糞悪いこの気持ちは払拭できそうもないだろうけれど、それ以上に言い訳も何もしてくれないのが嫌だった。

「もういい!」

やけくそになって怒鳴ると電源ボタンを押す。
布団に落ちた携帯が再び振動する事はなかった。






特等席きみのトナリ







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2010/10/28




title:確かに恋だった




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