「長次!おかえりなさい!」

扉を開けた瞬間、視界に飛び込んできた光景に、思わず回れ右をしたくなった。
これは、夢か幻か。できれば夢であってほしい。そう願いつつ、目をはためかせて、ついでに手の甲で瞼をこする。けれど、目の前に見える光景は、全く変わらなかった。

「なに突っ立ってんの。早く入れって」

我が物顔で部屋に招き入れる小平太に、ここはお前の部屋じゃない、私の部屋だ。というセリフがせり上がってくる。けれど、そんなことよりも、目の前にいる男のインパクトがとにかく強すぎて、言葉が言葉にならなかった。

足の裏が、接着剤を塗りたくられたように、全く動かない。冷たい通路と、あたたかな部屋の境界線になる扉を背に、長次はただただ立ち尽くしていた。
学生用のワンルームマンション。大学入学と同時に用意されたそこは、八畳ほどの部屋に、小さなキッチンスペースと、申し訳程度の水回りがくっついている。大学生のテンプレートのような一室は、他の誰でもない長次の帰るべき住まいで、目の前で出迎えてくれた友人のものではない。
来訪者と家主。本来とは逆転している関係に、つっこみどころ満載だけれども、それよりもまによりも。と、長次は重い口を開いた。

「……その恰好は、なんだ」
「え?なに?変?」

鏡を見ずとも、己の眉間に皺が寄るのがわかる。苦い。とても、気分が苦かった。そんな長次のとは対照的に、小平太はからっとしていて、その温度差にさらに気分が滅入ってしまう。

小平太が身にまとっているのは、どこからどうみても高校生の制服にしか見えなかった。

同じ学び舎に三年間通い、机を並べてきたけれど、小平太がまともに制服を着た回数は、多分両手で余るほどしかない。
「ジャージの方が都合がいいんだ」
とは、小平太の言い分だ。その言葉通り、行事やなにかといったどうしても着なければならない理由がない限り、制服に袖を通そうとはしなかった。記憶の中の小平太はいつだってジャージばかりで、卒業式では、新入生かよ! と、つっこみたくなるほどぴかぴかの制服を着てきたくらいだ。

あれほど嫌っていたのに、いま、制服を着ている。

いま着る必要があるのか?と、問われれば、答えは確実にノーだ。
行事云々言う前に、長次も小平太も、すでに高校生ではない。着る必要なんてかけらもないのだ。
……というか、小平太のそれが何度か身に纏ったあの制服だったら、まだ理解できた。懐かしんでるんだろうか、くらいの気持ちになれた。けれど、残念ながら、現実はそうではない。

小平太の着ているそれは、全く見慣れない制服だった。

真っ白なブラウスに、薄いブラウンのカーディガン。首元にはかわいらしい、エンジのリボンが結ばれている。足元は紺色のハイソックスだ。そこから視線を上に巡らせると、チャコールグレーの布地に白とグレーのチェック模様が目に入る。幾重にもプリーツが重なったそれは、風でも吹けば簡単に捲れあがってしまいそうな頼りないスカートで、どこをどう見ても女子の制服だった。

「……女だったのか?」

いや、違うだろ。自分のセリフに、間髪入れずつっこむ。
体育で何度も着替えるところを見たし、林間学校で一緒に風呂に入ったことだってある。ついてるものは、自分と同じだった。そもそも、二人が通っていたのは男子校だ。

「え、なになに?わたし、そんなにかわいい?似合う?」

返ってきた見当違いの答えに、ガクッと足の力が抜ける。
まあ、確かにかわいい……、いや、違う違う、そうじゃない。いま聞きたいのは。

「……どうして、女子の制服を着ているんだ」
「おお、これな!同じサークルの子に借りた!案外はいるもんだなあ」

背の順は、常に後ろから数えたほうが早い自分とは逆に、小平太は前から二番三番が定位置だったことを思い出す。しかし、例え上背がなくとも、そこはやはり男だった。剥き出しの足は全然柔そうではないし、たっぷりとしたカーディガンの胸元も、断崖絶壁よろしく、見事なほどすとんとしている。

「どうよ、どうよ?」

そう言って小平太が、くるりと一回転する。短めのスカートがふわりと浮かんで、いかにも男物なトランクスの端が、ちらりと視界に映った。まるで祭りのような、にぎやかな色合いのそれが見えたのはほんの一瞬のこと。なのに、鮮やかすぎる彩光のせいか、はたまた自分の内にある邪な感情のせいか、瞼の裏に焼きついてしまった。小平太を直視できなくて、首ごと視線をそらす。
それを別の意味にとったらしい小平太が、不安の声を漏らした。

「え、似合わない?だめ?」

さっきまでの強気はどこ吹く風、しょぼんと肩を落とす子犬のような声に振り返ると、身長差分だけ上目遣いになった小平太の顔が大映しになって、心臓が飛び出すんじゃないかというほどに大きく跳ねた。ぱっと、耳まで熱くなる。

素でそういう格好をさせるなら、見目が恐ろしいほど整っている仙蔵や、女子から可愛いと騒がれる伊作の方が、よっぽど似合うだろうと思う。

これが、惚れた欲目、というやつなのだろうか。似合うとか、似合わないとか。客観的に述べるなら、百人いたら百人が、どうだろう?と答えるレベルで、小平太のそれは見るからに男の女装だった。制服を着ただけで、何の小細工もしてないんだからそれは当然の話だけれど、そんな小平太だとしても、世界中の人間が口をそろえて「ない。」と言ったとしても、長次にはかわいく思えて仕方なかった。





長次が、望みのない片思いを自覚してから、すでに一年以上が過ぎようとしている。

高校で出会った小平太と長次は、水と油と比喩されるほどに真逆の性格だった。無口で無表情な自分とは、まったく違う。だからこそ、惹かれるものがあったのかもしれない。
小平太が喋る、笑う。それだけで周りの雰囲気が、ワントーン明るくなった。授業中の態度はけして真面目とは言えなかったけれど、口を開けば教師をも自分のペースに巻き込み、授業そのものを食いつぶしてしまう。そんな彼の魅力に麻薬のようにはまり、気が付いた時にはすっかり後戻りできないところまできていた。
こんな不毛な恋なんて、なかったことにしたかった。若気の至り。高校時代の苦い思い出。そうしたかった。

長次と小平太では、明らかに偏差値が違う。進路が別れれば自然と疎遠になり、きっとこの気持ちも思い出の一部になる。何年か先、同窓会で青年に成長した彼と再会して、馬鹿な勘違いをしたもんだと笑える日が来る。そう思っていたのに。
これこそ神様の悪戯というべきか、小平太が進学を決めた大学は、長次のアパートから三駅も離れていなかった。

「近いから遊べるなあ!」
屈託なく笑った小平太に苦しくなったのは、ごく最近のことだ。そして、小平太の言葉通り、まだ四月だというのに、こうして会うこと数回である。それもこれも、引っ越し早々、合鍵の場所を嗅ぎつけられてしまったからだ。おかげで長次は、いまだに勝ち目のない恋に振り回される日々を送り続けている。




「なあなあ、そんなに変か?だめか?なあ、長次ってば!」

小平太がジャケットの裾を引っ張る。幼子が母親にねだるような子供っぽいしぐさに、一周まわった思考を現実へと戻された。
ジャストサイズより大きいカーディガンからは、指先だけがちょこんと覗いていて、それすらひどく可愛く思えてくる自分は、相当な小平太馬鹿なのかもしれない。

「……宴会芸でもする予定があるのか?」

新歓でやれと言われたか。と問えば、小平太は勢いよく首を振った。

「ばっか!頼まれてもこんな格好しないって。人前で女装とか、恥ずかしいだろ」

……じゃあ、今のその格好はなんなんだ。喉元まで出かかった言葉は、小平太の一言で引っ込んでしまった。

「だってさ、長次がブレザーだって、言ったじゃん」
「は?」
「だから!ブレザーがいいって、この前言ってたじゃないか。だから着たんだ。忘れたとは言わせないぞ!」

畳み掛ける勢いで投げられた言葉に、とんでもないセリフが組み込まれていて、ぎょっとする。

私が、言ったから?だから着た?女物の、制服を?

脳内を疑問符が駆け巡る。どういうことだ、どういう意味だ。
うっかり自分の都合のいいように解釈しそうになって、いや、それは夢見すぎだろ、と頭を振った。



あれは先週末のこと。卒業式ぶりに同級生四人で集まって鍋を囲んだ。
年頃の男が集まればやはりというべきか、下世話な話にもなるわけで。あれは鍋も終盤戦、最後に雑炊を作ろうか、という頃合いだった。きっかけは仙蔵で、うやうやしく文次郎に向かって紙袋を取り出したのが事の発端だった。それに、いの一番で反応したのは小平太で、差し出された本人よりも早くにひっつかんで、これまた勝手に中を覗き込んでしまった。

「うおっ、これすっご!」

小平太が歓声を上げる。なんだと思って振り返ると、「みてみて!」と袋の中身を、黄門さまの印籠のごとく、取り出したところだった。嬉々としてかざしたそれは、何とも淫らなパッケージのDVDで、カメラ目線でセーラー服を盛大に着崩すそれに、文次郎が盛大に噴きだす。うろたえる文次郎が目に入ってないのか、頓着しないのか、小平太は仙蔵に向き直ると。

「これ、仙蔵のか?」
「いや、違う。文次郎のだ」
「なんでてめえが持ってんだよ!」
「隠し場所は、もう少し考えた方がいいぞ。あと、女子高生はどうかと思う」
「わたしはナースが好きだな〜。ねえねえ、文次郎。これ、わたしに貸してよ!」

貸せだの、返せだの、スーツだの、水着だの、白衣だの。実に年相応らしい攻防が、部屋中に響き渡る。三人のやりとりを聞き流しつつ、話題に乗っかることなく、淡々と雑炊の準備を進めた。

ナース、か。

小平太の言葉に、胸の奥がずんと重くなる。
別に落ち込んでなどいない。長次自身もそういった類のものにお世話になったことはあるし、そうあることは健全な証拠だ。同じように、小平太が嗜んでいたって、それは当たり前のことで、がっかりすることも、咎めるべきことでもない。
頭では当然のことだとわかっているはずなのに、やはり小平太の好みは柔らかな女で、どこをどうみても可愛いとはお世辞にもいえない自分が入り込む隙なんて一ミリもないんだと思い知らされ、地面に突き刺さって地中に埋まるような気持ちでいっぱいになる。そのタイミングで文次郎に問われたのだ。
「長次だって、セーラー服好きだよな!?」と。




別に、女子高生のブレザーに、殊更性的執着があるわけではない。

「……いや、ブレザーの方が。」
と、うっかり言ってしまったのは、他でもない小平太を思い浮かべてしまったからだ。

ブレザーにネクタイを締める、制服姿の小平太。高校時代、数回しか見たことのないその姿が、ぱっと頭に浮かんだ。そして、それを乱す自分を、想像してしまった。真白いワイシャツに手をかけ、その下にある素肌を弄る。上気した頬。汗ばんだ膝裏。込みあげる快感に潤む瞳。色めいた吐息。それは、幾度か脳内で犯した姿だった。問いかけに脊髄反射するみたいに頭の端を掠め、口を滑らしてしまったのだ。
あの時、苦し紛れに答えたあれが、今になって返ってくるとは思っていなかった。

「なあなあ!どうだ!?わたしのブレザーは!」
「どうって、」

どうって、いいに決まってるだろう。とは、さすがに言えなかった。口にしてしまえば、言葉の端々から好意が溢れて、勘の良い小平太にばれてしまうかもしれない。友人としてもそばにはいられなくなるだろう。だから余計に、どう答えていいのかわからなくて、口ごもってしまう。沈黙が走る。

「もう!」

先に口を開いたのは、小平太だった。

「長次が好きっていうから着たんだぞ!長次の、長次のために!その意味が分からないのかよ!?お前、いい加減気づけよ!」

バカ!と、胸を叩かれる。

長次のために。

その言葉に、雷に打たれたような衝撃が、全身を駆け抜けた。
それは、そういう意味なんだろうか。都合よく、そう解釈をしていいのだろうか。自分が焦がれるように、小平太も同じだと、そう思っても。

期待が喉のあたりまで出かかって、顔が熱くてたまらなくなる。何か言わなきゃと思うのに、栓をされたみたいに言葉が出てこなかった。


長次、と呼ぶ声に、不自然なほど大袈裟に肩が跳ねた。ぱっと絡み合った視線、頬をりんごのようにして、不安そうに瞳を揺らす小平太が映って、ますます声が形にならない。どきん、どきん、と脈打つ心臓が悲鳴を上げてるみたいで苦しかった。

「……長次が、いいって、…似合うって言ってくれたら、言うって決めてたんだ、」
「ちょ、こへ、」
「もう、ばれてると思うけど、……長次。わたしは、お前が、」
「まっ、待て!」

それは、私が言いたい。考えるよりも先に手が出ていた。
決定打の言葉が紡がれる前に、小平太の唇ごと手のひらで蓋をする。触れた皮膚越しに、熱い吐息がかかった。柔らかな唇の感触に、心臓がぐんぐんと早くなる。喉が震えるのがわかった。


変わりゆくことは悪いことではない。でも、失うのだけはごめんだった。それが怖くて、保守的になって、自分を偽って、傷つかない安全な道を選ぶことに必死になっていた自分が、心底情けなかった。
いつだってそうだ。出会った時から、なにをするにもきっかけを作ってくれるのは小平太で、長次自身は伸るか反るかするだけだった。頷くことは容易い。けれど、今度ばかりは、この気持ちだけは、自分が伝えたいと思った。感情を表すのも、言葉にするのも苦手だけれど。
ごくり、と唾をのむ。

「……、好きだ」

たっぷり時間をおいて紡いだ精一杯の告白に、小平太が「私が先に言いたかったのに!」と耳まで真っ赤にするまで、あと五秒。




夢よりも甘い現実を





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2012/2/25




title:確かに恋だった



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