*一年生勘ちゃんと、木下先生です。





新学期が始まった。教室の窓からは満開の桜が見えるし、その下には友人たちが楽しそうに笑いあっている。その姿を教室の窓から眺め、勘右衛門は、はぁ、とため息を落とし、筆を握りなおした。

本当ならば、自分だって彼らのように、校庭ではしゃぎまわる予定だった。懐には真白い大福を忍ばせており、桜の下でみんなと食べるつもりだったのだ。それなのに、と、半刻ほど前の出来事を思い出して、涙目になる。
新学期早々、学級委員の仕事と称して、木下先生に大量のプリントを渡されたのだ。そもそも、好きで学級委員になったわけではない。成績優秀といわれるい組で、特に勉学に秀でているわけでもないし、体術だって得手なほうではない。全体成績で言えば良く見積もっても中の上なのに、学級委員なんて不本意な役回りを押し付けられてしまったのは、「学級委員なんてやったら、勉強する時間が減る」と級友たちが役を嫌がったからだ。「勘右衛門ならできるよ」と、外堀を埋めるように周囲が盛り立て、半ば強制的に学級委員になってしまったのだ。

(学級委員て、柄じゃないのに。)

一人ごちて、ため息を吐く。みんなと遊べないし、面倒な仕事は押し付けられるしで、最悪だった。おまけに担任が、あの強面である。ぶっちゃけてしまえば、怖くて目も合わせられなかった。今日だって、声をかけられても、顔を上げることが出来なかった。俯いて、「はい、わかりました」と声を絞り出すのが精一杯だった。

クラス名簿を作って、配るプリントを仕分ける。与えられた仕事は、難しくないものの手間がかかって、やっぱり面倒だなぁと思う。
名簿に最後の一人を書きこむ。作業はこれで終わりだ。窓の外はどんどん暗くなってきて、同じように勘右衛門の心もどんどんと暗くなる。仕事は終わった。後はこれを木下先生の元に届けるだけだ。けれど、それが嫌でしょうがないのだ。

(ひとりで、先生のとこ、行きたくないなぁ………)

こわいなぁ、と思う。本気で怒ってるわけじゃないと思っていても、あの顔が怖くて怖くてたまらなかった。
一人で先生の部屋に行きたくなくて、兵助に声をかけたけれど、「予習がある。」の一言で、ばっさりと切り捨てられてしまった。隣の学級委員にもそれとなくお願いしたけれど、「雷蔵と遊ぶから」と断られた。ならば先生が顧問をしている生物委員の八左ヱ門に…、と思ったのに、生物委員会は恒例の脱走劇か何かで奔走しているらしく、捕まえることすら出来なかった。

時間だけが刻々と過ぎていって、朱色に染まっていた廊下が、今は藍色に満ちている。早く提出しなければ、本当に本気で怒られかねない。それだけは避けたくて、薄暗い気持ちを抱えつつ、とぼとぼと長屋へと向かった。



木下、と書かれた襖の前で、ふぅっと息を吐く。二、三度、深呼吸を繰り返して、気持ちを落ち着ける。緊張でなかなか出てこない声を、なんとか絞り出そうと口をあけた瞬間だった。

「勘右衛門、」

目の前の襖からではなく、自分の背後、ちょっと高い位置から声が降り注いで、おもわず「ぎゃあ!」と、蛙をつぶしたような声を上げてしまった。慌てて振り返ると、そこには目を丸くした木下先生が立っていた。
さぁっと、血が下がる。涙がにじむ。名簿を、作った名簿を先生に渡さないと。「出来ました」って報告しないと。頭ではわかってるのに、月明かりのみの廊下の薄暗い雰囲気や、ただでさえ怖いと常々思っている先生の雰囲気にすっかり飲まれてしまって、ぜんまい切れのからくり人形のようにまったく動けなかった。

「あ、あの、俺、…じゃなくて、わた、わたし」
「おお、できたのか」

きれいに作ったはずの名簿は、声をかけられたときにびっくりして握ってしまった。くしゃりとしわの入った紙を勘右衛門の手から抜き取ると、木下先生はその場にしゃがんだ。俯く勘右衛門の視界に、先生の顔が映りこむ。そこにはいつもの怖い顔はなかった。

「上手に出来てるじゃないか」

よくやった、と、ごつごつした大きな手のひらが髪をなでる。さすが学級委員だ、と褒めてくれる。
いつもより丁寧に書いたつもりだけど、兵助のようにお手本のような字が書けるわけでもない。おまけに、最後の最後に握ってしまい、紙の端々にはしわが刻まれてしまった。止めきれなかった涙がこぼれた部分は、墨がにじんでしまっている。どう見てもいい出来ではないはずなのに、それでも先生は「よくできてる、ありがとう」と、撫でてくれた。

普段は、怒鳴ってばかりなのに。怖いばかりなのに、いま目の前にいる先生は、すごく優しくて、あったかかった。怖いけど、やさしい。少しだけほころんだ先生の口元に、勘右衛門は心の底があったかくなるのを感じた。涙は引っ込んでいた。

ご褒美と称して、先生から小さな袋をもらった。
「他のやつらには、内緒だぞ」
と、渡された袋の中身は、金平糖だった。一個だけ口に含むと、じんわりと甘さが広がる。甘い金平糖と、木下先生の優しい一面。それから授業で会う先生は、やっぱりいつもどこか怒っているようで怖かったけれど、たまに投げられる見守るような視線にうれしくもなり、苦しくもなった。

ちょっとづつ育ち始めた淡い気持ちを理解するには、あのころの自分はずいぶんと幼かったなぁ、と懐かしい気分になる。
あの日から五年。五回目の春を迎え、今年もやっぱり教室で一人、桜を眺めていた。五回目の学級委員。今日もあの時と同じように、紙に筆を走らせている。
一年だったあの日、怖くてたまらなかった長屋までの道のりは、今では楽しみへと変わっている。自分しか知らない先生に、会えるかもしれない。そう思えば、はやる気持ちに拍車がかかるくらいだった。

(早く、はやく、先生に会いたい)

机の片隅には、大福が二つある。あの日、先生から金平糖をもらったように、今度は自分が大福を渡そうと思う。そして言うんだ、桜を見に行きましょう、と。






洋菓子みたいな恋をしたんだ







****************
2011/4/14




title:確かに恋だった



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