車窓がどんどんと、緑を増していく。

田舎町まで続くこの単線線路は、祖父母が暮らす山間の町まで繋がっている。
一時間に一本走るかどうかも怪しいローカル線。一両編成の車両は、所々汚れていてお世辞にも綺麗とは言えない。けれど、幼い頃から、くすんだ木造りの床板だとか、立てつけの悪い窓だとか、駅員さんがいない空っぽの駅だとか、鋏で切符を切るところとか、そんな、都会では味わえない風景が大好きでたまらなかった。

この路線を辿るのは、何年振りだろうか。指折り数えて、片手では足りないことに気付き、溜息を一つ落とす。
古びた電車の揺れは心地いいし、流れる景色は爽やかなことこの上ないのに、それに反比例するように、小平太のテンションは目減りするようにじわじわと下がっていった。



祖母から「たまには顔を見せに来なさい。」連絡が来たのは、高校生活最後の夏休みまで、あと一週間という頃合いだった。
保育園に通っていた頃こそ、長いお休みのたびに訪れていた田舎には、ここ数年は顔を出していない。いや、顔を出せなかったというべきか。いまだにそれは継続中で、「ほら、わたし、受験生だし……」と、もっともらしい言葉を並べる。それに対抗するかのように、寂しげな色を滲ませた祖母の「お前の顔が見たいんだよ。」と、厄介者払いしたい母親から繰り出される「田舎のほうが涼しいし、勉強はかどるでしょ。」に、小平太は両手を挙げて降参するしかなかった。



期間限定で過ごした母のお在所は、おじいちゃん、おばあちゃんばかりの片田舎で、子供の少ない過疎地だった。自分のような子供なんてほとんどいないその土地で、唯一の遊び相手が、隣の家に住む女の子だった。
隣と言っても、そこは田舎。だだっ広い田んぼと、都会の一軒家くらいの大きさの納屋を挟んだ先に、その家はあった。自分の記憶が確かなら、その子は確か、その家の一人娘だった。

仰々しい門構えの旧家に住まう彼女は、ラフなTシャツとハーフパンツで泥んこになる自分とは真逆で、いつもきちっとしていた。冬は着物、夏は浴衣。普段の生活ではどうだったのか休暇中しか訪れない小平太には皆目見当もつかないけれど、休日の彼女の身なりは古き良きを形にしていて、すうっと花開く百合みたいだった。

「……ちょうじ、」

懐かしい名前を口にして、思わず泣きそうになる。耐えるように、ぎゅっと目を瞑る。瞼の裏に浮かび上がってきたのは、十一年前の光景だった。



小平太が最後に訪れたのは、小学校にあがったばかりの年の夏休みだ。
「宿題、終わらせたら行ってもいいよ。」という母親の言葉に、二つ返事でうなづいて、初めての夏休みの宿題を必死に仕上げたのを、今でも鮮明に覚えている。宿題をこなすのに、あそこまで頑張ったのは、あれが最初で最後だったかもしれない。そのくらい何もないあの田舎町に、長次に会いたくて仕方なかった。
あの時、最後に残した宿題は、夏休みの思い出という題材の絵で、「おばあちゃん家描きたい!」と、駄々をこねて強請った。そうして、しぶしぶ折れた母親に連れられて、初めて一人でこの電車に乗ったのだ。

ぐらぐら揺れる電車。澄んだ風のにおい。全部が新鮮で、きらきらと輝いていた。
かばんにつめた絵の具と画用紙。これを持って原っぱに行こう。脇に咲いたひまわりと、一緒にかけっこしてくれる長次。青く広い空も、全部全部、この紙いっぱいに描こう。
そう思って、いの一番に長次のところに走った。



真っ白な画用紙に、色を乗せていく。
宿題の絵を仕上げる小平太の横で、長次も同じように画用紙を広げていた。律儀というか、付き合いがいいというか、「小平太が描くなら、私もなにか描く。」と言って。

「わたし、この町好きだなー。ずっといたいよ」

ポツリと呟いた言葉に、長次が顔を上げる。画板に釘付けだった瞳が、こちらをすうっと見つめる。色素の薄い茶色に、目が離せなかった。

「なら、」
「うん?」
「…………」

次の言葉を待っていたのに、長次の唇からその先の言葉が出てくることはなかった。

あの時わからなかったことも、いまだったら、わかる。あの時長次は、きっと、「それなら、ずっといたらいい。」って言おうとしたんだ。
ずっといればいい。一緒に、ここで暮らしていけば。
そんな、夢物語のようなことを。そして、そんなことできないってこともわかってたから、あえて言わなかったんだ。

子供だった自分は、長次の言いたいことも、気持ちも、なにひとつわかっていなかった。



白いキャンバスに、黄色の絵の具を伸ばす。
大好きなひまわり畑に夢中になっている中、長次はじいっと空を眺めていた。不思議に思って「どうした?」と声をかけると、「雨、降りそうだから帰ろう。」と、黄色のバケツを持って、砂利道を先に行ってしまった。
慌てて筆をまとめて追いかける。バス停に着いたところで本当に雲行きが怪しくなってきて、バスを待つ三十分の間には、ざあざあ降りへと変わってしまった。ちょっと前まで、青空が見えていたのに。

「ちょーじ、すごいな!」
「……風が湿っぽかったから、」
「へえー!わたし、わかんなかった!ちょーじ、すごい!まほうつかいみたい!」

両手を広げて、馬鹿の一つ覚えみたいに、すごいすごいを連発した。はしゃぐ小平太に、長次は困ったような恥ずかしそうな顔をしていたけれど、そんなの一向に構わなかった。



長次といる時間は、本当に楽しかった。周りの大人は、自分たちのことを正反対だと言ったけれど、だからこそ、パズルのピースみたいにぴったりだったのかもしれない。

長次は大事な友達。きっと、一生の友達。今までも、これからも。

そんな気持ちが崩れてしまったのは、滞在して六日目の出来事だった。



その日は探索と称して、裏山で遊んでいた。普段だったら、森の中に入るようなことはしない。凹凸のない原っぱか、近所の田んぼの周りで虫取りをして遊んでいる。

事の発端は長次が眺めていた昆虫図鑑で、そこにはデパートで売られているカブトムシがいっぱいいた。

「わたし、これ見たことある!」

デパートで売ってた! と、瞳を輝かせてノコギリクワガタを指差す。すると、長次は首を振って「山に行けば、いる。」と言った。びっくりして、目を見開く。

「えっ!山?ここの山にいるの?」
「……いる。こっちのなら、去年見つけて、育てた」

長次の指先には、大きな角を持つカブトムシの写真があった。

去年、母親に強請って強請って、それでやっと買ってもらえたのは、小さなクワガタだった。友達のカブトムシと戦わせても到底勝てないくらいちっちゃいクワガタだったけれど、それはそれですごく嬉しかったし、夏が終わって動かなくなってしまったときは、本当に悲しくて一晩中わんわん泣いたほどだ。けれど、今年は買ってもらえなかった。
虫より、人形でしょう?
言外に、女の子なんだから。を滲ませて、そう突っぱねられてしまったのだ。

「……ほしいなあ」

ポツリと、本音が零れる。
買ってもらえないなら、自分で捕まえたらいいじゃないか。だってここにいるんだろ。
そう思ってしまったら、もう止まらなかった。



向かった先は、裏山にある小さな神社だった。

拝殿以外の建物がない無人の神社は、昼間でも陽がささないほどに薄暗い。
ぐるりと境内を回って、拝殿の裏から伸びる獣道を長次が先に歩いた。「迷子に、ならないように。」と、手を繋いで。

奥へ進めば進むほど、深い緑がますます暗くなる。初めて入る森の土は湿っていて、真っ青だった長靴がどんどんと茶色に変わっていく。それは長次も同じで、足元の黄色はすっかり汚れていた。
神社が完全に見えなくなってしばらくたった頃、長次は歩みを止めて「ここ。」と指差した。形のいい爪の先には、てっぺんが見えないくらい大きな木が立っている。

「去年、ここで捕ったから、今年もいると思う」
「捕る……って、どうやって?」
「木を蹴ってもらって、落ちたのを拾った。多分、上のほうにいる」

長次の助言通り、幹めがけて渾身のキックをお見舞いしてやる。けれど、カブトムシが落ちるどころか、枝のひとつも揺れなかった。ならば!と、おもいきって長靴を脱ぎ捨てる。長次がぎょっとした顔をしたのはわかったけれど、かまわずに裸足になった。つばを両手にかけて、「よおし!」と、自分で自分に活を入れる。おろおろする長次に、「わたし、木登りは得意だから!」と笑った。

木登り、と言っても、都会でするそれは、せいぜい屋根くらいの高さしかない。実際小平太がのぼったことがある木も、保育園で植えられている小さなものだった。幹だって、目の前にあるこれよりもずっと細かった。でも要領はきっと変わらない。多分、大丈夫だろ。高をくくって、枝に足をかける。ろくに手入れのされていない自然の樹木は、思っていたよりもずっと登りやすかった。

長次が止めるのも聞かずに、どんどんと上を目指す。長次の背を追い抜いて、父親にしてもらった肩車くらいの高さになったころ、足場になりそうな枝に移った。
カブトムシがいないか、幹の表面をなぞる。危ない危ないと、心配そうな長次の声がひっきりなしに聞こえる。

「だいじょーぶ!だいじょーぶ!」

高いところは苦手ではない。むしろ好んで屋根に上がりたがるくらいには好きだった。だから怖がることもなく、枝の上から手を振った。

長次が小さく見えるなあ。のんきにそんなことを考えてる時だった。足元からベキッと劈くような音が耳をさす。え、なんて、声を出す間もなかった。足元がふわっとして、触れていた木の幹から指が離れる。重力に引かれるように、背中からバランスを崩す。何が起こってるのか、全然わからなかった。

ジェットコースターで落ちるような気持ち悪さと、スローモーションに流れる景色。地面が一気に青空になって、周りの木がどんどんと背を伸ばしていくように見える。次にあったのは、背中への衝撃だった。

「…………ったぁ…っ、」

ゆっくりと目を開く。どうやら背中から落ちたらしい。落下の瞬間、一瞬だけ詰まった息と、後を引く痛みがそれを物語っている。けれど、不思議なことに動けないほどではなかった。

地面に大の字になって、ゆっくりと息を吐く。
そういえば、長次はどこだろう。
声も、姿も見えない。心配になって、ぐるりと視線をめぐらせると、視界に飛び込んできたのは、ぐったりとした長次の手だった。ぎょっとする。一瞬で、痛みなんかどっかにすっ飛んでしまった。慌てて起き上がると、自分が長次を下敷きにしていた事実に倒れそうになる。

だから、そこまで痛くなかったんだ。

ぐったりとしたまま、身じろぎすらしない長次に、全身の血がどんどん下がる。自分だけじゃなく、一緒に落ちた太い枝も長次を直撃したみたいで、剥き出しだった足に血が滲んでいた。それだけじゃない、藍色の浴衣が所々裂け、色を深くしているし、長次の顔まで赤でべっとりと汚れていた。

「ちょ、……ちょーじ……」

恐る恐る体を揺らす。意識はちゃんとあったみたいで、ゆっくりと瞼が持ち上がったことに、心底安心する。

「いま、だれか呼んでくるから!」

待ってろ!と、立ち上がろうとしたところで、それを拒むように長次の右手が小平太の手首を掴んだ。その手のひらも、血で汚れていて、このまま血が全部流れて死んじゃうんじゃないかという恐怖に襲われる。

早く行かなきゃ、そうしなきゃ、長次が死んじゃう。

怖くて怖くて、涙が零れる。ぼたぼたと雫が地面に落ちる。
手を握った長次はゆっくり口を開くと。

「……おまえ、けが……、ない、か……?」

途切れ途切れの言葉に、また涙があふれる。

怪我をしたのはお前だ!いま一番大変なのは、お前だ!おまえ自身だ、長次!

自分の心配をしろ! そう怒鳴りたいのに、震える喉からは一向に言葉が出てこない。うっ、うっ、と情けない嗚咽を出しながら、長次の手のひらを握り返して、馬鹿の一つ覚えみたいに頷いた。長次、死なないで。そんなことを思って。



その後すぐ、糸が切れたみたいに動かなくなってしまった長次にパニックになって、大泣きしながら森を抜けた。お気に入りの長靴が、かたっぽどこかにいってしまったことにも気づかず、裸足で地面を蹴って、蹴って。畑のあぜ道で野良仕事の小休止を取っていたおじさんを捕まえたときには、まともに喋れないほど、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。

長次はそのまま、救急車で運ばれて、即入院となった。もちろん自分もそのまま病院に連れていかれ、駆けつけた母親にこっぴどく叱られた。そして、長次の両親にめいっぱい頭を下げた。
「見た目より、全然ピンピンしてるから、大丈夫。」
という長次の母親の言葉に、生死の境をさまよっていると信じきっていた小平太は、安心してまた泣いた。

長次、生きてた。

それが嬉しくて、仕方なかった。




後篇へ



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2012/6/10




title:花涙



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